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水銀屋様



 実際、慣れというのは恐ろしいものだ。
ナガセは、なんとなくそんなことを考えることがある。
自分は、あらゆることに慣れてきた。
例えばそれは、空を飛ぶことであったり、ここでの生活であったり、ミサイルの発射ボタンを押すことであったり、新しい一番機の後ろを飛ぶことであったり、彼の不在であったり。
何もかも、一生慣れることなどないなどと思ったりしたものだが、時間がたてばそんな気持ちも薄れていく。
いや、麻痺していくのか。
不思議な話だが、時間というのは、何にも勝る麻酔だと考えることもできる。
ナガセは、辺りを見回した。
慌しいような静かなような、なんともいえない浮き足立った雰囲気。いつも通りだ。
ただ、彼がいないだけ。
最初は、ただ悲しかった。そして、ひどく寂しくなった。やがて、馴染んでいくだろう。
もしかしたら、彼を忘れてしまうかもしれない。そんなことさえ、ぼんやりと思うようになる。
 忘れてしまったら、彼は、どうなってしまうんだろう。


 ぼんやりとしているところで、肩を叩かれて顔を上げる。
そこには、ブレイズのコールサインを持つ男が佇んでいた。
ブレイズは、変わった男だった。
グリムのように小柄でもなく、彼のように大柄でもない。グリムのように見事な赤毛でもないし、だからといって彼のように特徴のある髪形をしているわけでもない。
とにかく目立たない無口な男。
それがブレイズだった。
ブレイズから、声をかけてくることも稀だ。
ブレイズは、人の話を聞いていることのほうが多い。
特に、彼がブレイズによく話し掛けている光景を目にしたっけ。彼の話は、とても楽しげではあるが、彼の好きな話題を好きなように話すせいか、どうも話題が飛んだり横滑りしていたりする。ブレイズは、それをある種の辛抱強さで口をはさむことなく最後まで聞いている。だから、彼は、ブレイズに好んで声をかけていた。彼が話し好きである以上に、ブレイズは、天性の聞き上手なのかもしれない。
そんなことをぼんやり考えながら、ナガセは、ブレイズの顔をじっと見つめた。
ブレイズは、その表情に乏しい顔を、ほんの少し顰めてナガセに向かって無言のまま一通の封書を差し出した。
 何気なく受け取った封筒の表書には何も書かれていない。ただ、裏側に彼の本名が署名されているだけだ。いつも、コールサインで彼のことを呼んでいたから、妙な違和感がある。
首を傾げるナガセに、ブレイズはただ開けてみろというように顎をしゃくる。
そんなブレイズの態度にも慣れてしまったナガセは、特に取りざたもせずに封書の中身を取り出した。
簡素な、白い便箋だった。
そこに書かれている文字は、何度か目にする機会があった、彼の文字だった。


いつまでも元気で。

 そんな出だしで始まっていて、それがなんなのか漸く理解した。それは、実に彼らしくない話だが、遺書だった。
戦闘機乗りや、船乗り、宇宙飛行士や、前線にいる軍人が、遺書を書いておくことは珍しい話ではない。いつ、命を落としてもおかしくないのだから、それなりの備えをしておくというのは、よくある話だ。
だが、その行為と彼とはつながらない。彼流の言葉を借りるなら、「ロックンロールではない」からだ。
ナガセは、手紙の続きに目を通した。


いつまでも元気で。
両手いっぱいの愛と、絶え間ない感謝を。


 アルヴィン・H・ダヴェンポート


短い遺書だった。
たった一言といっていいほどの短さだった。
彼は、饒舌な男だった。無線で彼に対して「うるさい」と嗜めたことさえある。彼には、もっと言葉があると思っていたのに。
ひどく足りない気がした。あるべき言葉がたくさん抜け落ちているような感覚。最後の言葉なのに、こんなに短いなんて、なんだか置いてけぼりにされた気分だ。
そっと、手紙をなぞった。そこにかすかな凹凸があることに気付いた。本当に、かすかな。
日の光にすかしてみると、重ねた紙に書かれたのか、何度も文字を書いた跡がある。
なにを書かんとしたかは、判らない。ただ、これから判るのは、彼が何度も何度も書いて、何度も何度もやめたということ。
たくさんの言葉を、彼らしく何度も書いたのだろう。
何度も書いて、何枚も便箋をだめにして。
余計な言葉をひとつずつ何回も書き直すたびに消していく。
彼は、どんな気持ちでその作業をしていたのだろう。何度も何度も、振り返ったのだろう。今までの人生を、故郷を、家族を、友人を、彼の愛したすべてを、それらへの想いを。
ただ「愛している」と伝えるには、どうしたらいいだろう。ただ「ありがとう」と伝えるには、どんな言葉がいいだろう。
何度も書いて、そのたびに首を傾げて、彼がいつもするように髪をかきまわして、便箋を丸めてダストボックスに放り込んで、それからまた、便箋に顔を伏せる。
 想像したら、なんていつもどおりの彼なんだろう。
 だからこそ伝わる、彼がどんなに周囲を愛していたか。
 そして、どんなに周囲が彼を愛し、慈しんだか。
「ブレイズ、チョッパーは、みんなを愛してたのね」
「そうだな」
 ポツリと、ナガセが呟いたのを聞いて、ブレイズは肯く。
「わたしたち、チョッパーのことがとても好きだったのね」
「そうだな」
 確かめるような言葉に、また、短く肯く。
「こんなに好きなのに、忘れられるはず…ないわね」
「……そうだな」
 忘れたらどうなってしまうんだろうなどという考え自体が、必要ない。だって、忘れるはずがないから。
 彼がいないことに慣れてしまっても、彼が思い出になってしまっても、きっと、彼を忘れることはない。
 いつでも朗らかで、大らかなくせに変なところで繊細で、騒がしくて、優しくて、明るくて、みんなを両手一杯に愛した男。
 ナガセは、ゆっくりと瞳を閉じ、ひとつ息をついたあと顔を上げて微笑んだ。
「ありがとうブレイズ」
 ブレイズは、ナガセが泣くかと思った。彼女が泣いたら、どう慰めようかと、必死になって考えているところに、その笑顔は不意打ちで、ちょっとばかり頬が熱くなったが、もごもごと口を動かしたあと、「いや」と、小さく答えて首を振った。
 その仕草が不思議で、ナガセが、どうしたのと尋ねると、ブレイズはただ誤魔化すように肩を竦めた。
 肩を竦めるのをみて、ナガセが小さく笑うと、ブレイズは照れ臭そうに、そして不思議そうに尋ねるように首をかしげる。
 それに、ナガセはなんでもないと軽く手を振って答えた。
 肩を竦める仕草が、彼とブレイズはちょっと違う。
 そんな些細なことに気がついて、彼を思い出すぐらいだから、彼を忘れるなんて、到底無理だと今更ながらに気がついたのがおかしかった、などといったら、ブレイズはどんな顔をするだろう。
 さすがに、そんなことを口にするのは恥ずかしくて、胸の奥にしまっておくことにする。
 彼の残した笑顔と、両手一杯の愛情と、絶え間ない感謝、そして、忘れがたい記憶とともに。