いくらでも、繰り返す。
その記憶はないけれど。
痛みに紛れて、彼女の思いが入り込む。
それは自分の意識をも侵食して凌駕する。
これが誰の思いなのか、自分のものなのか。彼女のものなのか。そもそも自分が何を考えているのか。
境界が曖昧になっていく。
私が私でなくなっていく。
「やぁ」
彼は上級の姿を見るなりいつもと同じように笑いながら近寄ってきた。
すでにこうして彼が現われるようになってから、何度繰り返された遣り取りだろうか。正確に数えていたし覚えていたはずでもあったのに、記憶を辿っても何人目の彼であるかわからなかった。
わからなかったから、反応はしなかった。
いつもなら睨みつけてくるくせに、今日に限ってなんの反応もないことに、彼は唇を歪める。
「なんだ、もしかして結構恋しかった?」
冗談まじりにそう問い掛けて覗き込めば、不必要なほど大袈裟に身体を震わせる。
「………」
それでも何も言わない上級に、彼は小さくため息をもらした。それはいくらかおどけた雰囲気のあるため息で、普段ならこんな風に接すれば必ず怒るはずの彼はやはり静かなままだった。
すとんと彼の刺さる感覚球のすぐそばに座り込む。
ほんの少しもたれかかれば最下層へ行く。そのぎりぎりの位置。
「ここも寂しくなったよね」
神経塔内では、すでに浮遊少女たちが姿を消していた。
リトルたちの泣く声ももう聞こえない。
今この神経塔にいるのは、マルクト教団の愚かな信者たちとどこからともなく現われる異形ばかりである。
「僕は結構、アリスに怒鳴られたりイライザに怯えられたりするのが好きだったな」
感情の起伏の激しいアリス。感情の殆どないイライザ。
彼女たちは、この神経塔の中でただふわふわと待っていてくれた―――自分を。
どちらも好きだった。「彼女」のカケラだからかもしれない。だがそれとは別に、もっと深いところで、彼女たちが好きだった。
今はもう、どちらもいない。
そしてそれは外界も同じだった。
何度も何度も繰り返される生の中、歪み閉ざされた世界に耐えられなくなった者たちから、少しずつ少しずつ、だか急速にそして確実に。
浄化してくれと頼む者もいた。ただ土に埋まって声すらあげられなくなった者もいた。
みんな、この手で浄化してイデアセフィロスになった。
そしてそれを冷静に見つめる自分がいる。
生や死に対して、ずいぶんと冷静で決して人間らしくない自分。
自分には彼らのように「終わり」がないからかもしれない。
でもそれは、今更どうでもいいことだった。
「…おまえは」
静まり返った神経塔で、ようやく上級が口を開いた。
その声は、珍しく掠れていた。
彼はゆっくりと振り返る。上級は決してこちらを見ようとはしなかった。
ただ、変わることのない冷たい壁を虚ろな瞳で見つめている。
「……なに」
いつもは痛いほどの真紅の瞳が、今は濁っている。
どこを見つめているのか、何を見ているのかわからない生気のない瞳に、彼はほんの少し、眉を顰める。
「…おまえは、創造維持の元へ行くのだろう。閉じた世界を歪めたままにするのだろう」
「世界を癒すのはもう諦めたの?」
彼の声など聞こえていないかのように、上級は続けた。
どこか苦しげにも見えた。
「……創造維持の声がする」
「……彼女の?」
世界を創造し維持する者。
ヒトはそれを神と呼び、マルクト教団はその神を守るためという大義名分で活動していた。
だがその神は、すでに狂ったまま、歪みを広めていく。
上級はその声を聴く。嫌でも聞こえてくるのだ。
それは人の声であったり、波のさざめく音であったり、木々が揺れる音であったりした。
ただ、それがどんなものであっても、彼女の意識が、声が、そして思いが。
痛みに紛れて伝わってくる。
「痛いと」
苦しんでいるのは誰だ?
「たすけてほしいと」
救済を求めているのは誰だ?
「一つになりたいと」
自分はどう思っている?
狂おしいほどの感情が、感覚球を伝わってくる。押し寄せるように、溢れるようにやってくる彼女の膨大な感情が、自分の核を内側から破壊する。
何を感じていて自分がどう思っていて現実がどうなっているのか、それらの全てが曖昧になっていく。
この感情に任せてしまっては駄目だ。
これは自分のものではないのだと言い聞かせても、それすらも凌駕する、感情の嵐。
彼はそれをききながら、濁って精彩のない瞳を自分の手で覆った。
自分が好きなのはその濁りきった瞳ではない。野心に満ちた痛いほど切羽詰まった目だ。
だから隠した。上級は嫌がることはしなかった。そうする力すら、もうないのかもしれない。
「この感情は誰のものだ?」
私のものなのか、彼女のものなのか。
そもそも自分自身、彼女の作りあげた人形なのだとしたら、何を感じようとなにを思おうとそれは彼女の掌の上のことで、こうしてもがく意味があるのかと不安になる。
そう感じることすらバロックなのかもしれない。
いっそ狂えたら楽かもしれない。
押し寄せる感情は誰のものかわからない。
自分の目で見て感じたものは、はたして自分の意識で感じているものなのか。
じわりじわりと、ゆっくりとそして確実に侵食されていくのがわかる。
侵食が進めば、きっと自分は自分でなくなってしまうのだろう。
「私は…」
言葉がうまく紡げない。
咽喉が焼けるように痛い。
「………おまえは、もう行け」
最下層で待つ彼女の元へ行け、と促すと、身体の内部からゆらりと暗い感情が湧きあがる。
これが一体なんの感情なのか、上級には判別のしようがなかった。
ただその思いは、酷く重くて、咽喉を、胸を掻き毟りたくなるような痛みと熱さがあった。
神の意識とはこれほどなのかとぼやけていく視界でそう考える。
いつかそう遠くなく、自分はこの重く大きい感情に喰い殺されるだろう。
そしていつか自分はいなくなるのだ。
それは死と大差がなく、だが確実に違うもの。浄化されることは一生有り得ない。
全てが喰われた時、自分は自分を忘れ、この世から消える。
そう思い、絶望感が身体全体を支配した時。
「………」
ひどくちいさな声で。
彼は、上級の名を口にした。
「自分の名前だろう?忘れるなよ」
濁った瞳が何も見ないよう手で覆ったまま、彼はそう言った。
上級は、ゆっくりと彼の手に自分の手を重ねる。
伝わってくる人の暖かさに自分の指先は、まるで氷のようだと思った。
そうして、掠れた声で―――震える声で、縋るような気持ちで呟いた。
「…ここにいてくれ」
この感情に殺されるまで。
それは、まぎれもなく彼だけの言葉だった。
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