明日のために




 プレハブの校舎、階段の上から階下の様子を眺めれば、人影もまだない中を、ブータが一匹、のそのそと歩いていた。猫としてはどこか太りすぎの感も否めない。
 しかしそれでも場合によっては敏捷で、猫らしい動きをする。
 こちらがじっとそれを見ていれば、まるで視線に気付いたように、ブータが顔を上げた。
「ブータさん」
 呼べば、方向転換して鉄筋の階段を、やはりのそのそとのぼってきた。
 しかし呼んだはいいものの何かあげられるようなものはない。猫缶の一つでも用意できればよかったのにと自分を歯痒く感じながら、足元にじゃれつくブータに気付いてしゃがんだ。
「ごめんなさいね、わたくし今、あげられるもの何もないんです」
 そう呟くと、言葉を解しているようにブータは一声、にゃ、と声をあげた。
 それでもじゃれつくことをやめないブータを愛しく思って、手を伸ばす。その指先に誘導されるようにブータが動いた。柔らかいような、どこかかたいような毛に触れて、撫でてやればごろごろと喉を鳴らした。
 朝早い時間に登校してくるような仲間はほとんどいない。しかも昨日はかなり皆遅くまで残っていたのだ。人気のない教室は寂しさしか感じられないが、それでもその時間を一人で過すのは悪くなかった。
 こうやっていつも、一人で物思いに耽ったりする。
 たとえば昨日の出撃のこと。攻撃は最大の防御とばかりに出張って、士魂号はほとんど破棄寸前というところまでいった。さすがにあれは原がかなり怒っていたが、ああしない限り指揮車が危険だったことも確かだ。
 あの時の、通信機越しの瀬戸口の声を思い出して、少しおかしくなった。
 いつもは余裕ぶって、何でも知ってるような口振りで、決して優しい言葉なんて自分には向けてこない男。視線を感じて振り返れば睨まれるか興味なさそうにそっぽを向かれる。慣れたとは思ってもそのたびに苦い気持ちを噛み締める。
 それが昨日、あの時は違った。攻撃を受けて機能低下していく士魂号。その時に瀬戸口が叫んだ。
「もういい、おまえは撤退しろ!」
「あなたに命令されるいわれはありません!」
 戦場での意地もあった。ただそれよりも、瀬戸口の言葉に従うものかと、その思いの方が強かったかもしれない。
「死にたいのか!?」
 コクピットの中、その言葉に理性のタガのようなものを外した。頭で考えるよりも先に口を開く。振り向き様、握り締めた大太刀を背後に迫った幻獣に力の限り叩きつけた。あれは斬るというよりも、まさしく叩きつけるといった感じだった。剣を志して今まで女の自分があんな風に刀を奮ったことは一度もない。
「そんなわけないじゃないですか!!」
「壬生屋さん、落ち着いて!」
「壬生屋、そのまま動くでない!」
「駄目だ、間に合わねぇ!」
「みおちゃん!」
 何人もの声が同時に通信にかぶった。振りきり際、無防備な姿を晒す士魂号に、幻獣たちが赤い目を光らせてにじり寄る。そもそも教えを振り切ってまで装備していた大太刀は、接近戦で使用するものだ。幻獣たちの間に割って入ることをしなければならない。もちろん危険なのは承知している。どうにか機体の体勢を整えて振り返れば、間近に幻獣の赤い目が爛々と輝いている。承知していても、その瞬間はいつも息も出来ないほどの恐怖として襲い掛かる。
「壬生屋!!」
「動くな!今助ける!」

 その後はもう散々だった。善行には叱られ、舞や速水、滝川からも注意され、あげくに原の怒り心頭という表情に、壬生屋はぐったりするくらい説教されたのだった。

 にゃあ、とブータのなく声に、現実に引き戻された。途端に、彼が視界に入った。階段の下に、瀬戸口がいる。
「……」
「よう」
 遅刻常習の瀬戸口がこの時間に現れるとは思ってもみなかった。咽喉をつまらせながら、ようよう小さく声を絞り出す。
「おはようございます…」
「早いんだな」
「…あなたとは違いますから」
 どこか刺々しくなるのは、いつどんな言葉でなじられるかわからない自己防衛のようなものだった。本当はこんな風に刺々しい言葉なんてかけたくない。
 その時間にしては甲高い音がして、鉄筋の階段を、瀬戸口はゆっくりとのぼってきた。
「寝てないんじゃないか?」
「…そんなことありません」
「朝方まで修理してただろう?」
「……それは、してましたけど…。わたくし、身体は自分で管理できますから」
 たしかに、ほとんど寝てはいなかった。家に戻ったものの、寝るほど時間もなかったし、そもそも感情が昂ぶっていてそれどころではなかった。死に近かったと思うと妙な熱があって眠りは訪れない。だからこそ今日も、こうして早い時間に出てきたのだ。
 見抜かれたような瀬戸口の言葉に、壬生屋は視線を逸らしてじっとブータを見つめた。ブータは相変わらず壬生屋にじゃれついている。無邪気なものだ。
「無理すると倒れるぞ」
「無理なんて」
「なぁ、約束できるか?」
 気がつくと瀬戸口が階段をあと一段というところまでのぼってきていた。
 そのまま、のぼりきることはせずにその場に腰をおろす。壬生屋は驚いて身じろぎした。想像以上に近い位置に瀬戸口がいる。
「…無理するな、戦場でも、他でも」
「なんでそんなこと言うんですか。…あなたは、わたくしのこと嫌いなんでしょう?」
「…嫌いだな。生き急ぐところなんか特に」
「なら、いいじゃないですか」
「いいから誓えよ」
「な…ッ」
「俺のために」
 近い位置に瀬戸口がいた。何が起こっているのか、壬生屋にはよくわからない。
 ただ、いつもよりずっと近い位置、同じ高さに瀬戸口がいて、こちらを見ている。酷く真摯な瞳で。
「…え」
「………最悪だよ、おまえ。俺の理性ふっ飛ばしてくれるんだからな…。どうしてくれるんだ」
 わかるのは、瀬戸口がいつもと違うということだ。
「責任とってくれよ」

 夢だろうかと思いながら、壬生屋はただこくりと頷いた。夢だとしたら、これ以上幸せなこともないかもしれない。正夢になればいい。
 瀬戸口の指が自分の髪を弄ぶのも、視線の高さが同じなのも、全部。


BACK
テーマ階段。階段…?(汗)。とりあえず私の書く瀬戸口はいつでも煮詰まっておるのでありました。