No,LastScene -12-
 君以外はいらないんだ。君しかいないんだ。君だけがほしいから、だからずっとここにいる。

 絢爛舞踏を、とった。
 撃墜数300を、少し越えた。
 明日にはいつものように勲章授与があるだろう。そこで自分は、はじめて化け物になる。
「…なんにもないなぁ」
「え?」
 遠坂が振り返る。辺りには他に誰もいなかった。
「さっきので、僕300越えたんだよ。撃墜数」
「……そうでしたね」
 学兵になってたった二ヶ月。その短い間に、彼は恐るべき撃破記録を作った。
 そもそもこの5121小隊に、そんな人間があらわれるなどと誰が思っただろうか。
「…明日には、変わりますよ…きっと」
「そうかな、そうかもね。300を越えたら世界の見え方が変わるかと思ってたんだけどな」
 簡単に物騒なことを呟く速水は、それでも人を安心させる笑顔で笑っている。
 その笑顔とあいまって、言葉は奇妙な恐ろしさを備えていたが。
「…それは」
「けど、何も変わらないね。相変わらず幻獣は幻獣でしかないし、僕たちは僕たちでしかない」
 まだほんの少ししか、速水と三番機に乗っていない。が、それでも彼の凄まじさは身をもって体験している。幻獣たちが赤い瞳をぎょろりと動かして自分たちを見た時も、彼は酷く冷静だ。
 焦る遠坂に声をかけて、なお他の仲間たちに気を配るだけの余裕がある。
 慣れだけでそこまでになれるのか、といったら、それは違うだろう。
 それはきっと、彼にしか出来ない。
「僕は化け物になるのかと思ってたけど、僕のままだしね」
 笑う速水に、遠坂はハッとして言葉を失ったまま呆然とその顔を見つめた。
 瞳に宿る色はたしかに力強くもあったが、微笑めば彼はいつもの通りの速水厚志でしかない。
 だが、彼はもう化け物と呼ばれるようになる。
「だからきっと…」
 呟きかけて、速水は口を閉ざした。先が気になったが、それをごまかすような速水の笑顔に、眉を顰める。

 学兵になって二ヶ月目、速水厚志は絢爛舞踏を授与する。



 
ふと瀬戸口は左手の多目的結晶に目をやった。
 メールがきている。
 出撃の後は、投与しすぎた薬のせいでいつも身体が鉛のように重いか、気分が高揚しているか、そのどちらかだった。
 腕をあげるのも面倒なのか、その動作は酷く緩慢だった。
 確認してみれば、それは舞からのもので、一瞬眉を顰める。
 舞と瀬戸口とは、さほど仲がいいわけではなかった。勿論女性の味方を気取っているので、それなりに話もするのだが、こうしてメールが、しかも私用で届いたのははじめてだ。
「………」
 たとえば。
 壬生屋のことを、自分はどう思っているのだろう。
 はじめて会った時から、彼女は他の人間とは違っていた。惹かれたのはあの青の瞳のせいだっただろうか。あの人を、連想させてとても嫌だった、あの瞳。
 薄れた記憶の中に残る、おぼろげな残像が壬生屋と被る。何もしていなくても、気を抜けばそうなって、それが嫌で、何度も罵った。
 彼女の存在を無視した。
 けれど。
「…壬生屋…」
 何度振り払おうとしてもそれはうまくいかなかった。
 追われる彼女を見て、何かが切れた。それは、遠い過去の記憶と重なったからだった。
 でも、それなら、あの時のあの感覚はなんだったのだろう。
 指先が痺れるような、あの時の、あれは。
 他の誰とも違う、あの時感じた指先の痺れ。

 メールの内容は、壬生屋の見舞いに来い、というものだった。
 その一言と、最後に、
「一人にするな」
と、そう書かれていた。
(…俺じゃ、駄目なんだ)
 あの時の壬生屋の言葉がよみがえる。
 壬生屋の震えた声も、涙で濡れた瞳の色も、必死に拒絶している姿も。
 じくりと胸の奥が痛んだ。胸の奥の、本当に一番深いところが、奇妙に生暖かい。
 それは息をするのすら拒絶するように胸の奥を締め付けて、なお苦しく締め上げる。
(…俺は)
 ふと思う。自分は、何かを選んだことはあっただろうか。
 人の身体に乗り移りながら長い時を生きた。それは自分が選んだことだっただろうか。
 いつもいつも、自分は最悪の道しか選べない。きっと他にも選択肢はあるだろうが、いつも自分は最悪の選択しか出来ず、転がるばかりだった。
 もし、今、何かを選べと言われたら。
 自分は、何を選ぶだろう。



 ののみが病院に顔を出したことに驚いて、壬生屋はほんの少し、表情を取り戻した。
 いつでも明るい笑顔を浮かべている彼女は、まっすぐに壬生屋のいるベッドへ歩み寄り、嬉しそうに椅子に座った。
「えへへ、みおちゃんおからだのちょうしどうですか」
「…だいぶ、よくなってます」
 そう呟いて、壬生屋は一瞬悲しそうな表情を作った。
 本当は、良くなんてなりたくなかった。
 それでもここが病院である以上、治ってしまうのは当然のことだ。
「よかった、ののみしんぱいしたんだよ」
「…ありがとう」
 彼女の前向きな姿勢がひどく眩しい。たまらない気分になって、壬生屋は俯いた。
 どうしても、ののみをまっすぐ見つめることが出来なかった。
 そんな壬生屋に気づいたのか、ののみは少し悲しそうな顔で覗き込む。
「みおちゃん、どうしたの?」
「…なんでも、ないんです…気にしないで」
「みおちゃん、かなしいの?」
 その言葉に、壬生屋は答えなかった。答えられなかった。こんな幼い少女に、死にたいと思っていることなど口には出来ない。
「…あのね、みおちゃん」
「…はい」
「ののみね、ほんとうはのぞみって言うの」
 突然何を言い出すのだろうと壬生屋はそっと顔を上げた。ののみは嬉しそうに笑っている。
 つられて微笑みたくなるような、笑顔だった。
「おてがみがとどいたのよ。東原のぞみ、って書いてあったの。あっちゃんがね、読んでくれたのよ」
 黙っている壬生屋に、ののみはさらに続ける。
「いみはね、きぼーなんだって。えへへ」
「…希望」
 口に出してみる。壬生屋は麻痺しかけた頭で、自分の、望みを、思い浮かべる。
 死ぬことだろうか。
 けれどそれは、彼女の言う「希望」とは少し違うものかもしれない。
 じゃあ、自分は。
「…いい、名前ですね…」
 そう、自分の、望みは。
 あの人に、自分のことを見てもらうこと。
「えへへ。あっちゃんもそう言ってくれたのよ。うれしいなぁ」
「…希望、は…きっと、未来のことも言うんですよ」
「ふええ。みらい?」
 希望は、どれだけかかってもいいから、最後でもいいから、自分のことを、見てくれること。
 シオネではなくて、壬生屋未央を。
 そういう未来が、来ればいいと思う。
「…みらいはきぼーとおなじ?」
「…少し、違いますけど…きっと、似たものですよ」
 彼が―――瀬戸口が、こちらを見てくれる可能性なんてほとんどない。
 わかっているけれど、それでも、そう、願いたい。
「じゃあ、みおちゃんのなまえは?」
「…え?」
「みおちゃんのいみはなんですか」
 その言葉に、壬生屋は困惑した。自分の名前の意味など、考えたこともない。
 父親からその意味を聞いたこともなかったから、壬生屋は答えられずに視線をさまよわせる。
 すると、ドアの開く音がした。
「壬生屋の名前の意味は『未来を求める』、だろう」
 心を読まれたような言葉に、鼓動が跳ね上がった。病室に入ってきたのは舞で、酷く自信ありげに笑っている。
「まいちゃん!」
「芝村さん…」
 少し警戒した目でうかがうようにして見れば、舞は不思議そうに首を傾げた。
「何かおかしなことを言ったか?」
「…い、いえ」
「みらい…?じゃあまいちゃん、みおちゃんはへいき?」
 その言葉に、舞と壬生屋が同時に言葉を失う。何かを知っているのではないかと一瞬疑ったが、壬生屋のことを知っているのは、舞以外にはいないはずだった。
「…どうなのだ、壬生屋」
 何も言えずに、壬生屋は俯くしかなかった。どうして平気だと言えるのだろう。
 優しくしないでと、はっきり拒絶したくせに、自分は毎日、そのドアが開くのではないかと考えている。
 けれどそれは絶対にありえないことで、でも有り得ないとは思いたくなくて、どうしようもないこの感情だけが渦巻いているのに。
「…みおちゃん」
 ののみの声に、けれどうなずくことはできない。
「…きっと、平気だ」
 沈黙に耐えられなくなったのか、舞がぽつりと呟いた。
「ほんとう?」
「…私は芝村だ。嘘は言わん」
「えへへ、嬉しいな」
 壬生屋は何も言えなかった。顔を上げることも出来なかった。
 舞の言葉も、その言葉に喜ぶののみの表情も、自分には眩しくて、痛かった。

 望むのは、彼と歩く未来。
 お互いの目に、自分以上のものがうつらない、そんな、未来。


 翌日。げっそりした表情で、プレハブ校舎に戻ってきた速水に対する仲間たちの態度はがらりと変わっていた。予想はしていたし、それは遠坂も言っていたことだった。
 明日になればきっと変わる。
 たしかにその通りだった。化粧もさせられたし写真もとられた。無駄に装飾の多い文章を覚えさせられもした。そして自分の胸に、名前だけは豪華で、けれど勲章としては地味なそれがつけられている。
「ねぇ遠坂」
 戻った途端に二組の教室へ走った。彼がいるはずだと思ったが、二組には思ったはずの人物はいなかった。
「…はい、なんでしょう」
 視線の先は、絢爛舞踏。今までで自分を含め五人しか授与していないその勲章は、名前は知っていても形は知らない者ばかりだ。
 かくいう自分もそれは同じだった。
 嫌な顔をされるのかと思ったが、遠坂はいつもの通りだった。
「…狩谷、知らない?」
「…狩谷くん? …いえ、今日は見ていませんよ」
 ありがとう、と短く礼を言って、踵を返そうとした速水は、ふと振り返って、笑った。
「嫌な顔しないね、珍しい」
「…そうですか?」
「この勲章とって嫌な顔しなかったの、来須とののみくらいだもの」
 無口ながらどこか達観したところがあるように思える来須と、幼いながらもきちんと正しいことを理解しているののみと、そこに自分がいれられるのは、奇妙な気分だった。
 遠坂は困ったように口元をおさえ、それから答える。
「…たぶん、少し考え方が変わったのだと思います」
「ふぅん、そっか。…いいことだよね」
 いいことなのかどうかは、遠坂自身にはわからなかった。やはり困ったように笑うしかない。
 実際、速水はもう遠いところにいるような気分にはなっている。
 自分では到達できないところまで、彼は簡単にのぼりつめてしまったのだと思う。
 幻獣を殺すことを褒めるべきかはわからない。けれどきつく当たる気にもならなかった。



 速水が絢爛舞踏をとった。
 過去に自分も手にしたそれは、自分にも重過ぎたものだった。
 そういえばあの時も、自分は何も選んでいなかったと、そう思う。
「ね、瀬戸口。狩谷知らない?」
「…さぁね」
 速水に、伝えなければと、瀬戸口は顔を上げた。
 途端にその強い青の瞳に萎縮されて、瀬戸口は目を細める。
「…僕ね、狩谷探さないと駄目なんだ。ブータにも言われちゃった」
 言わなければ、と思う。が、口が鉛のように重かった。
 今、その言葉を言えるだけの何か、は自分にはない。
「…瀬戸口」
「…あ、あぁ」
「いいこと教えてあげるね。僕は舞が一番好きだけど、だけど僕が好きなのは舞だけじゃないよ」
 速水が何を言いたいのかがわからない。瀬戸口は曖昧に相づちをうった。
「僕はこの世界が好きだな。ヨーコさん風に言えばこの日本が好きなんだ。舞がいて、他のみんなもいて、毎日大変だけど笑ってる、そういうのは、いいよね。愛が溢れてるカンジがして」
「…速水」
 咽喉が渇いたような錯覚に陥って、生唾を飲み込む。
 知っているのだろうか、このいつもぼんやりわらっている男は。
「なんてね。愛の伝道師はわかってることかな」
 肩を竦めて、軽く瀬戸口に笑いかける。胸元の絢爛舞踏がひどく浮いていた。
 じゃあ、と言って走っていく背中を眺めながら、瀬戸口はぼそりと呟いた。
 それは、速水に言ってやろうと、そう思っていたことだった。
 けれど。
 今その言葉が必要なのは、彼よりも。
「…愛は…」
 愛?
 その感情を、自分は知っている。遠い過去ではなくて、それは。
 脳裏に、壬生屋の姿が浮かんで消えた。途端に、静かだった心臓が突然に存在を誇示しはじめる。

 知っている。自分はその感情を知っている。今―――。
「…壬生屋」



 夢を見る。
 夢の中で、彼女はその青い瞳でこちらを、悲しげに見つめている。
 ふと気づけば自分は実体がなくて、どこからどこまでが自分なのかすらわからなくなる。
 そしてその彼女の耳に、不快な声がしじまのように響いている。
 祈りのようにも聞こえた。酷く不快で、そして曖昧な自分の身体を、無理矢理に引きずり込もうとしている声。
 けれど壬生屋の身体がそれに引きずられるよりも早く、耳に心地よい声が聞こえた。

 もういちど?

 やりなおしてみようか?

 その言葉に、けれど彼女はうなずかない。
 どれだけ問い掛けても彼女の意志は変わらないように見えた。
 自分はそれを、空気に融けながら見つめている。
 そうしている間にも、あの不快な声は囁くのを止めない。

 私がやり直すことは、もうないのです。

 空気に溶けている自分は、じゃあどうして、と叫びたくて、けれど曖昧な身体の自分にはどうすることも出来ない。
 どうして彼女は自分の中に何かを残していったのだろう。苦しいまでの想いを。
 やり直すことを望んでいないのなら、どうして自分はまた同じ人を好きになっているのだろう。
 途端に、小さな不快な声は、彼女の言葉を波に乗せるようにして囁きはじめた。
ジャアドウシテ?
 囁かれる声。この暗い場所に響く声。
 けれどそれに心がとらえられる前に、また彼女の声がした。

 けれど、もしも。

ジャアドウシテ?
 声はいまだに囁きつづけている。
 どうして自分は気づいてしまったのだろう。存在までもを拒否されたのか、突然優しくされたのか、その理由に。
 気づかなければ、彼女は自分の中で一生眠ったままのはずだったのに。
 ―――どうして。

 もしも、彼女が、哀しむのならば。

 どうして彼は、あなたのものなのだろう。いつまで彼はシオネのものなのだろう。
 どれだけ待ってもどれだけ苦しんでも彼は、これからもずっとシオネしか見ないのだろうか。自分を通して。
 そしてその不快な声は次第に声高に叫びはじめる。

 残されているのは、ほんのわずかの力。だから、それを、彼女の…。

 想像するのも恐ろしかった。自分を通り越して、何か違うものを見ている瀬戸口。
 そんなものを想像するのは嫌だった。お願いだから、自分の中の感情までも過去のしがらみに囚われたくない。だから。
 けれど、瀬戸口のことを、好きなのは、瀬戸口のことを思って胸が痛むのは、たしかに自分の心で。
 どこまでが彼女で、どこまでが壬生屋未央なのか。もう、壬生屋にはわからない。

―――ナラバ コチラニ オイデ

 赤い瞳が、曖昧な身体に埋め込まれた。



「見つけた!」
 嬉しそうな、少し高くなった声に、狩谷はゆっくりと振り向いた。
 暗い表情だった。相変わらずその首筋や額には汗が浮かび、顔色が悪い。
 そして、瞳の色が、赤く輝いている。
「まさか君だったなんてね」
 そう言って笑う狩谷に、速水もうなずく。
「そうだね、僕も君だとは思ってなかった。つい最近まで」
 こんな時になっても、速水は笑っている。いつもと同じように、穏やかに、どこか間の抜けた笑顔で。
 赤い瞳は幻獣と同じ色をしていた。あれは血の色。
 赤くて綺麗な、人間の身体の中を流れるものと同じ色。
 嫌な音がして、狩谷の姿が変わっていくのを、速水はひどく穏やかな青の瞳で見上げた。
 あの瞳は血の色をしている。
 その血は当然自分の血の色で、生きているのだと、確信できる。
「知ってるよ、君が病院に行かないで、薬がなくても一生懸命整備してたの」
 鈍る動きを叱咤しながら、それでも他の者の足を引っ張らないように。
 それは彼のプライドがあったからかもしれない。
 けれどそれでいいと思う。
 だから速水は、士魂号に乗り込む時も笑顔だった。


 ドアがノックされても、壬生屋は答えなかった。
 少し前の爆音で、それが学校の方角からしたと舞はすでにテレポートセルを使って病院から抜け出している。
 どこかの病院が幻獣に襲われたというのは聞いていた。この近さならば、もしかしたら今度はこの病院なのかもしれない。
 そう考えていた時だった。ノックした相手が、おもむろに病室に入ってくる。
 一瞬、壬生屋は言葉を失った。
 それは、有り得ない人だったからだ。
「…瀬戸口さん…」
「…壬生屋」
 名前を呼ばれて、心臓が跳ねた。驚くほど大きな音がして、瀬戸口がそこにいることを、喜んでいる。
「…何を、しに来たんですか…」
 それでも、自分を必死に押し殺した。
 この人は「壬生屋未央」のためにここに来たのではない。
 自分に暗示をかけるようにそうきつく唇をかみ締めれば、夢に聞こえた声が、ぽつりと心の奥で囁いた。
「…おまえは、…どう言えば信じる?」
 その言葉に、壬生屋は拳を握った。
 次に来る言葉を聞くのが怖い。
 再びあの声が囁きかける。オイデ、と。
「……」
「…俺は、昔…何もなかったよ。俺は、どれだけ生きても」
 ―――嫌だ。
 瀬戸口の口から語られる言葉を、聞きたくなかった。それがどんな言葉を運ぶのか、そんなことは考えなくてもわかる。
 たとえどれだけ自分が望んでも、未来はやってこないのだ。自分の望む未来は。
「けど…今は、違うんだ」
 耳の奥がうるさい。しきりに小さな声が叫んでいる。
 オイデ、オイデ、オイデ、と。
 壬生屋は耳をふさいだ。そうしてみたところで、耳の奥から聞こえる囁きは小さくならず、むしろ身体の中でこだまするように響いただけだったけれど。
「…俺は…壬生屋じゃないと…」
 きっとそれは、嬉しいはずの言葉。
 待っていたはずの答え。
 けれどそれは、壬生屋の耳には届かなかった。
 ふさいだ耳の奥の向こう側から、赤い瞳をした何かがこちらを見ている。
「…嫌、嘘。そんなの嘘…! 私が…私があの人だから、だからそんな風に…!」
 ソウダヨ、と誰かが囁く。
 耳をふさいでもその声は消えない。
「違う!」
 瀬戸口が叫ぶ。けれど続けるべき言葉は、口にすることは出来なかった。
「嫌! 嘘、もう嫌。私を否定するのはやめてください…私…私…ッ!」
 見開いた瞳の色が。
「壬生屋…ッ!?」
 風が吹いた。突風だった。耳をつんざくような音がして、風が視界をふさぐ。
 部屋の中にあったものが、風あおられて転げ落ちる。
 瀬戸口は必死にその風に耐えた。
 それから、もう一度、その風の中、呆然としている壬生屋を見つめる。

 その瞳は、綺麗な赤だった。



 やっぱり、と思って速水は士魂号の中で微笑んだ。
 幻獣に、あれは食われた、というのだろうか。その狩谷の動きが酷く鈍い。
 今こうして、殺しあうために立っているけれど。
「薬、きれてるって言ってたもんね狩谷」
 独り言めいたその言葉を、遠坂は無言で聞いていた。
 目の前にいる、仲間の形をわずかに残した幻獣に圧倒されて声もない。
「遠坂」
「………はい」
 声が掠れている。思えば無理矢理パートナーに仕立てあげてしまったけれど、こうなるとわかっていたら避ければよかったかもしれない。
 今更だったが。
「僕は、幻獣を殺してきたけど…きっと幻獣も、痛かっただろうね」
「………速水さん?」
「僕は、だから許してもらおうって思うんだ。…痛かったよね。ごめんね。けど、僕は」
 速水が最後まで口にする前に、狩谷から鋭い攻撃が加えられた。
 いつもなら絶妙のタイミングで避けるはずの速水は、今回に限って防御コマンドも回避コマンドもいれていない。完全に無防備だ。
「う、わ…ッ!!!」
「耐えて!」
 無理だ、とわかっても、速水はそう叫んだ。



 赤い瞳。青かったはずの彼女の瞳はすっかりその色をかえていた。
 いっそ恐ろしいほどに透明な赤で、瀬戸口は言葉にならないまま呆然とその彼女を見つめる。
「…嘘、私を選ぶって、言葉で言うだけなのでしょう!?」
 瀬戸口は、首を横に振った。
 違う、と、けれどそれを、壬生屋が―――今の壬生屋が信じるはずがない。
「私は嫌…どうして、どうして私なんですか…私は、誰なんですか」
 赤い瞳を見開いて、うわ言のように呟く。その壬生屋の瞳は、赤くなっても綺麗だった。
「…おまえは、壬生屋未央だ。それ以外の何者でもない」
「じゃあどうして知らない記憶があるの!どうして私の中に知らない人間の記憶があるの!?」
 苦しいのだ―――と。
 壬生屋はそう言っているように聞こえた。
 突きつけられた遠い過去の記憶。自分の中の感情と重なる何か。けれど決して自分のものではない記憶。そんなものを、突然知ってしまったら、それは苦しいだろう。
「あなたはいつも私じゃない誰かを見てた。今でもそうでしょう?私を通して、シオネを見ているだけ。そうでしょう!?」
 風が吹いている。不自然に生ぬるい、澱んだ風。
 その風に、壬生屋の髪が揺れていた。長い黒髪が、幾筋も顔にかかって、表情を隠す。
 それでも青かったはずの赤い瞳が異様な光を含んでいて、奇妙に浮いていた。
 赤くても綺麗だ。
 壬生屋の瞳は、昔の自分の宿していた色と同じになっていた。けれどそれを、瀬戸口は醜いとも恐ろしいとも思わなかった。ただ、綺麗だと。
 その時だった。
 澱んだ風に吹かれて、ごとん、と何かが鈍い音で倒れた。
 ぴくり、と壬生屋が反応する。さまよった視線の先にあったのは、サボテンの植木だった。
「…あ」
 ベッドの上に座ったきり、動かなかった壬生屋がはじめて違う感情を見せた。
 慌ててベッドから降りて、割れてしまった植木を、まるで本当の宝物のように手にとる。
「……壬生屋、それ」
 その植木は、あの時、瀬戸口が、壬生屋に渡したものだった。
 必死にこの場に繋ぎとめようとして、渡したもの。
「だって…ッ、私には、これしかなかったんです…ッ」
 壬生屋の声が涙で震えた。
 あの時渡したサボテンの植木。それはたしかに、壬生屋に渡した、唯一のものだった。
 それを、彼女は、大事にしてくれていたのだろうか。
「あなたが、私にくれたものは…これしかなかったから…ッ」
 他には何もなかった。拠り所となるべきものは自分の中には何もない。
 けれど、これだけは。
 瀬戸口が自分に、自分のためにくれたものは、たったこれだけ。
 だから。


 士魂号の中は血の臭いが充満していた。
 この血の臭いは遠坂のものだろうか、それとも自分のものだろうか。
 霞む視界。見えるのはそこに立つ幻獣になった狩谷の姿。
「とおさか…平気?」
 答えはなかった。けれど、ぴくりと指先が動いて、生きていることを告げる。
「…よかった」
 頭を打ちつけたようだった。視界が赤い。
 きっと今なら自分の瞳も赤いかもしれない。
 速水はぼんやりと狩谷の姿を見た。このままではいけない、と思う。せめて遠坂は、逃がさなければ。
 けれど遠坂は立ち上がる余力はないようだった。今、彼をここから逃がすには、速水がまず士魂号のハッチをあけて、抱えて走るしかない。けれど。
(さすがに僕にもそこまでは…)
 痛い。頭の奥からずきずきと、熱がうずいているようだった。
 血の流れている音が、耳にやけに響く。
 その血の音が聞こえる限り、自分はまだ生きている、と思う。
 速水はふと、狩谷に向けて笑った。笑えていたかはわからなかったが、口元を歪める。そうするだけでも酷くあちこちが痛んだ。倒れた拍子に肋骨もやられたのかもしれない。
「…なんで君が戦ってるの」
 狩谷はウォードレスを着ることが出来ない。戦場に出て、やられることは死ぬことを意味している。 士魂号に乗ろうとも、士翼号に乗ろうとも、彼はやられれば死んでしまう。脱出が出来ないから。生身のままで乗り込むから。
 だけど知っている。速水たちに気づかれないように狩谷が戦車技能をとっていたことも、何もかも。
 だから、こうして戦場に立つ彼はおかしかった。
「……」
 どこかで声が聞こえた。
 膜の張った耳にはその声が何を言っているのかは聞き取れない。
 だから速水は、自分の意志で立ちあがった。
 遠坂は自力では逃げられない。狩谷も同じ。だとしたら、何もかもを救うのならば。
 自分で立つしかない。



「壬生屋」
 瀬戸口の声に、壬生屋は耳をふさぐ。
 必死に受け入れまいとしている。けれどその声も何もかも、自分に向かっている。
「…壬生屋。これから言うことは、嘘じゃないから…だから、聞いてくれ。嘘だと思ったなら、殺してもいいから」
 そういえば、前にも似たようなことがあった。刀を構えた彼女に、殺してくれるのかと笑った。
 あの時、意識していなかったけれど、彼女にならかまわない気がしていた。
「…シオネのことは、好きだった。たぶんそれは、今も、だ」
 そっと、歩み寄る。
 彼女を中心に巻き上げるように風が吹いている。
 瀬戸口を拒むように、その風は不自然に吹いていた。
「けど、違うんだ。シオネのことを思うよりも、壬生屋に…壬生屋に、触れた方が、熱いんだ」
 抱き寄せた時の指先が痺れるような感覚。震えあがるような感情。
 風になびく黒髪が綺麗だと思う。透き通るような青い瞳が綺麗だと思う。
 華奢な身体のくせに、先陣を切って戦場を駆け抜けるその様子に目眩すらした。
「そんなの…」
 壬生屋は耳をふさいだまま動かない。
 聞こえているだろうか。この声は届いているだろうか。
 拒まれてしまうのかもしれない。うまく言葉に乗せることが出来ないから。
 けれど、伝わってほしい。
「俺は今まで何も選んでこなかった。選んだつもりになって何もしてこなかった。ただ流されるままにしていた」
 シオネが死んだ時も。つかまった時も。人の身体に乗り移りながら生きはじめた時も、本当の意味で、選ぶことはしなかった。
 目の前に、白くて細い道がある。その道は、二つに分かれていた。
 一つは、やはり細いまま、どこまで続くかもわからない道筋。もう一方は、突然に道幅は広がる道筋。
 自分はどちらを選ぶべきか、それはもう、人に言われなくてもわかっていた。
「だから、今、選ぶから…」
 届く距離。壬生屋がその手を伸ばせば届く。その距離で瀬戸口は足を止めた。
 風はいまだに吹いていて、壬生屋はかわらず耳をふさいでいた。
 だから、きちんと届く声で、告げる。
「俺は…瀬戸口隆之は、壬生屋未央を、選ぶ」
 だからもう、遠い過去は捨ててしまおう。
 瀬戸口はそっと壬生屋へ手を伸ばした。
「…おまえは…壬生屋未央は、何を選ぶんだ!」
 きっと壬生屋がこの手をとってくれなければ、そこで終わる。
 だから瀬戸口は、壬生屋の瞳を見つめた。赤の瞳のその奥に、青がうっすらとよみがえろうとしている。
「…私…は…」
 躊躇う壬生屋に、瀬戸口が叫ぶ。
「おまえが望むなら、全部やるから。俺を、全部やるから…!」


 立ち上がって速水が最初に視界にいれたのは、ののみと舞の姿だった。その横に来須もいる。
 他の仲間たちもこちらを見て何か叫んでいる。声は届かないけれど、速水は笑った。
「…とーおーさー…か」
 間延びした呼び方をすれば、遠坂は、やはりぴくりと指先を動かした。
「間違ってないね…明日はきっといい日だね」
 赤く濡れた視界の中、どこかで風が吹いた。
 その風に後押しされるように、速水は走りはじめた。



 瀬戸口の声にまざって不快な声が聞こえる。それは少し気を抜けば彼女の意識をのっとろうとしていて、小さな声はまるで呪文とも祈りとも違うものに聞こえた。
 瀬戸口が伸ばす手に、自分の手を重ねることが出来れば。
「…う」
 きっとこんな感情からも解放される。
 自分を選ぶと言ってくれた、その言葉を、信用することが出来たわけではない。
 けれどその言葉に、自分は悔しいほど嬉しくなっていて、知らずに涙がこぼれ落ちる。

―――もうどれくらい泣いたの?

 ふと声が聞こえた。低く小さく囁かれる声よりも、はっきりと耳の奥にこだまする。
 ああ、あの声だ。
 自分の中にいる自分ではない誰か。瀬戸口と自分を引き寄せた人。

―――まだ終わりじゃないのよ

 何を言っているのかわからなかった。けれどその声は、耳をふさいでいても聞こえてしまう。自分の中の誰かの声は、拒むことは出来なかった。

―――泣かないで、前を見て、そして私を解放して

 そんなのどうすればいいのかわからない。自分の前には瀬戸口が立っていて、自分の答えを待っている。
 何をどうすればいいのかなんてわからない。

―――世界なんてどうでもいい。どこかの誰かのためじゃない。あなたはあなたのために、幸せになりなさい

 小さな声は、すでに消えていた。静かに響くその声に、壬生屋は言葉を失ったまま立ち尽くす。
 解放なんて知らない。あなたなんて知らない。けれどわかっているのは、自分の心。
 それがたとえば知らない誰かの心のものだったとしても。
 
そして、声の主が、ゆらりと姿をあらわす。それは心の奥底に眠る声ではなかった。
 彼女が、口を開く。
 瀬戸口が、その名を呼ぶために口を開く。

「「未央!」」

 振り返らないで、前だけを見て、呼ばれたのは自分の名前。呼んでくれたのはそれを望んでいた人。
 大丈夫、まだ終わりじゃない。
 そして、解放の言葉を。

―――この古い血に残る最後の力を…未来に!



 遠いどこかで泣き声が聞こえる。泣いているのは小さな子供のようだった。少年かもしれない。
「どうして泣いているの?」
 声に顔を上げた少年は、紫の瞳をしていた。
 ああ、綺麗だな、と思う。
「わかんない。…悲しいんだ」
 泣いている少年は、その目に大粒の涙をためていた。
 こんなに小さいのに、何か酷く悲しいことがあったのだ。たとえば、大切な人がいなくなってしまったとか。きっと彼の、母親のような人が。
「…大丈夫ですよ。ほら、前を見て」
 少年と同じ視線になるようにしゃがむ。低い視界。踏みしめるのは死んだ何かの群れ。
「この道を行けば平気ですよ。前を見て、決して俯かないで、疲れたら、空を見上げて」
「そうすれば、…逢える?」
「……違うの。あなたには、これからたくさんの出会いがあるの。だから、その中で、大切なものを一つずつ選んでいきなさい。」
「…逢えないの?」
 曇る声に、けれど首を振る。
「逢えるかもしれない。逢えないかもしれない。けど、ここにいては何もないの。逢えもしないの。何にも」
 ここは死んだ大地だから。
 だから、行きなさい、その道を。
「ねぇ…逢えたら、どうするの?」
 聞きたくなって、そっとたずねる。少年は紫の瞳で少し笑った。
「…逢えたら、そうしたら…ありがとう、って、言うんだ」
 死んでしまったその人に。大切だったその人に。
「…そう…」
 少年は、それからこちらを少し見て、不安げに一歩目を踏み出した。その先に何があるかはわからない。これ以上の絶望か、希望か。
 そっと立ち上がり、少年の消えた道筋をじっと見つめる。
 ふと、足元に青い燐光が浮かび上がっていた。
 ふわふわと頼りない光は、やがて彼女の足元を離れて、少年の進んだ道をまるで追いかけるように消えていく。

 さようなら。
 もう迷わないで、ここには戻らないで。

「未央」
 呼ばれて、顔を上げた。
 自分の進むべき道へ。自分達の、その先の未来へ。



 そっと顔を上げれば、瀬戸口の腕の中だった。至近距離にある瀬戸口の顔に、言葉を失い、慌ててその腕から逃れようとして―――けれど、それが酷く幸せで、彼の体温がそのまま、世界まで変えてしまったようで、壬生屋はそっと身体を預けてみた。
 瀬戸口はまだ目を覚まさない。
 耳鳴りのようだったあの小さな声はもう聞こえない。
 そして自分の中にいた、あの人の気配もない。
「……シオネ」
 自分でない誰か。けれど自分の一部。自分を形作った遠い過去の記憶。
 それは壬生屋未央のものではなかったが、まるでパズルのピースがぴったりはまるような、そんな感覚だった。
 そして彼女がいなくなった今、胸の奥底がぽっかりと空洞になってしまったようだった。
 自分を埋めていた、あれは欠片だった。
 そう思って、はじめて、壬生屋はシオネのために泣いた。
 その欠片は、もう埋まらないけれど、もう大丈夫だから。




「化け物ですねあなたは」
 しみじみといった口調で遠坂が呟いた。ベッドから抜け出すことの出来ない重傷患者の遠坂に対して、速水は恐ろしい回復力でもって戦場へ復帰した。今度は舞と。
「酷いなぁ〜僕だってまだ完治はしてないよ?」
 見舞いに来た速水はいつものように穏やかに笑っていた。
 あの時、最強の幻獣と戦った絢爛舞踏だと、この笑顔を見て誰が言うだろう。
「でもさ、舞も復帰して壬生屋さんも復帰して、あれ以来結構元に戻ったよね」
 今の5121小隊は、再び尋常でない力で熊本中の幻獣を狩っていた。
 一番機に壬生屋、二番機に茜、三番機に速水と舞。
「…どうなるのかと思いましたが…どうにもなりませんね」
「そんな簡単には変わらないよ、何もかも」
 最強の幻獣を殺したところで、熊本にいる幻獣たちが姿を消すわけではない。
 相変わらずどこかで砲弾の音がして、どこかで誰かが死んでいる。現状は何も変わっていない。
 変わっていないけれど、でも、あれは一つの始まりだった。
「じゃ、僕そろそろ行くね!」
「あ、はい」
 テレポートセルを起動させて、次の瞬間には速水は病院から消えていた。
 きっと今ごろは舞の前にあらわれて、何食わぬ顔で仕事をはじめるのだろう。
 空が青くて、気持ちがいい。
 布団が干せたらもっといい気分だと、そう考えながら遠坂はもう一度眠りについた。




 瀬戸口は、ゆっくりと空を見上げた。
 黒い月はいまだに消えていないけれど、青空の下にいる時はそれは見えない。
 ただ青い空が広がっていて、瀬戸口はそれを眺めているのが好きだった。
「こんなところにいたんですか?もう仕事の時間ですよ!?」
 屋上で寝転んでいた瀬戸口は、その声にゆっくりとおきあがった。
「…未央」
「仕事、手伝ってくださるんじゃないんですか?」
「…身体、もう大丈夫なのか」
 その言葉に、壬生屋はうなずいた。
 赤かった瞳はそれすらも夢だったのではないかと思わせられた。鮮やかな赤は消えて、今ではすっかり落ち着いた青の瞳に戻っている。
 ―――好きな、色だ。
「…なんだか、おかしいな」
 微笑みかける壬生屋の、そんな掛け値なしの笑顔を向けられると、奇妙な気分になった。
 いつも泣いているか怒っているか―――そんな表情ばかりを見ていた気がする。だから、まだ慣れることはできなかった。
 笑顔で話しかけられて、毎日瀬戸口の元に壬生屋が作った弁当が届けられて、こうして会話する。
 そこに、苦しいとか悲しいとかそういう感情はない。
「何がですか?」
「…いや、幸せすぎるのにも困ったもんだ」
 それは―――そう、はじめて手にした幸せかもしれない。
 だから奇妙な感覚だった。
 心の奥から暖かくなるような、優しい気分になる。
「…瀬戸口さん」
 そっと壬生屋を抱き寄せてみる。そうしていると落ち着いて、けれど落ち着かなくて、曖昧な感情が渦を巻く。
 でもそれが不快ではないから、不思議だ。
「…私も、幸せ…なんだと思います」
 壬生屋が、ぽつりと呟く。
「瀬戸口さんが、私を選んで…今、こうしているのが」
 シオネ―――。
 夜毎見ていた夢に、彼女は現れなくなった。それどころか、夢も見ない。
 夜、というのが身体を休めるためのものだと、こんな単純なことにもようやく気づく。
「…今はもう…俺は、おまえだけだからな」
 シオネ・アラダは、自分の中で決して揺るぐことのないところにいるけれど。
 薄れている記憶の中、あの人の笑顔はもう見れない。思い出すことも出来ない。
 けれど、それでよかった。
 目の前には、大切にしたい女が一人いるから。
「…はい」
 そう肯いたところで、二人の他目的結晶が同時に反応した。
 出撃命令だ。
「…やれやれ、いい雰囲気だったのにな」
 苦笑しながら、重い腰をあげる。壬生屋はすでに階段近くまで走っていた。
 そしてその手が瀬戸口に向けて差し伸べられる。
 それは―――そう、まるであの時のように。
「行きましょう、瀬戸口さん」
 好きなのは前を見るそのまなざし。明るい青の瞳。流れるような黒髪。
「…あぁ」
 その手をとって、握り返して、そして。


 ここから、全てが始まる。


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