空は青かった。3月の空はどんなに晴れていてもさほど地上に近くは感じられず、淡い色をしている。
「ええ天気やね」
飛行場までの見送りは、さすがに断った。今日、如月は卒業式だ。だから朝、別れることにした。その方が気楽だと思ったのだ。如月も異論は唱えなかった。
「なんや朝から翡翠ちゃんがその制服着てるの見るんは久しぶりやわ」
「うるさいよ」
如月が遅刻の常習犯なのは一つ屋根の下にいればわかることだ。
彼は気分が向けば学校にも行くが、基本的にその決断を下すのはとても遅い。それでも高校では一応、トップクラスの成績を維持しているわけだから恐ろしい。
そんな彼も、ついに卒業だ。
「…今まで、お世話になりました」
「あぁ」
如月の家に居候するという話は、龍麻から持ち出されたものだった。あっさり約束を取り付けてきた彼は、有無を言わさず自分を如月の家へ押し込んだ。
龍麻の目的もわからないし如月は何を考えているのかわからないし。最初の頃の居心地は最悪だった。しかも如月はこちらのことをあっさりと見抜く。 奇妙な鋭さも苦手だった。見透かされたような気分になった。
けれどいざ、何もかもが終わって出ていく今日。
外から如月の家を眺める。歴史を感じる大黒柱や、広い平屋独特の雰囲気や、どことなく薄暗さを感じる部屋。畳のにおい。何もかもが懐かしくてはなれがたい。
「…ホンマ、ワイ、いろいろ。迷惑かけたんやけど。その…」
なんとなくうまい言葉が浮かばずにしどろもどろに呟いていれば、如月が肩を竦めた。
「君、これから故郷に戻るんだろう?それからどうするんだい」
話しやすい方向へ話題を転換してくれたのだ、と知るのに時間がかかった。ぽかんと口を開けて如月を見つめる。
ほんの少しの沈黙の後、頭をかきながら答えた。
「まぁ、墓に挨拶、してこようと思うんや」
「…なんて?」
「もう、終わったで、って」
それは本当だった。客家から出て東京に来た時からそう思ってきた。柳生を倒したら、故郷に戻って一族の墓に挨拶をしようと。最初から、そういう目的で。
「…ゆっくり、眠ってな、って」
踏みしめた土は柔らかい。人が久しく踏みしめていない土の上を、少しふわふわした感覚で歩いた。一歩。近づくごとに故郷は近くなる。何年か前にこの道を、出ていくために歩いた日のことがふと脳裏をよぎった。
あの日、自分は向けられる善意を踏み台にしてでも日本に行くことを誓ってこの場所を離れた。
柳生は日本にいる。日本で、黄龍の器を探している。だから何もかもが終わる前に行かなければならない。
なぜそう思ったのかは、よく覚えていない。宿星だとか、そういうことは考えたくなかった。
宿星だとか、運命だとか、そういう言葉に括るには、あまりにも人が死にすぎた。自分の目の前で。
そんな犠牲を払ってまで、黄龍の器という存在が大切なものなのか。自分にはわからなかった。
一族は龍脈をたしかに守ってはいたけれど、幼かった劉にはその記憶はあまりない。だからこそ、わからなかった。そんなもののために殺された自分の家族たちのことが。
(認めたくなかったんやけどな)
龍麻が黄龍の器だと知ったのはいつ頃だっただろう。目の前で笑っているこの男が、一族全員を殺した原因だと、知って。自分は認めたくなくて、笑顔を返しながらさぐっていた。
違う。こいつじゃない。きっと違う。
幸せそうに笑う黄龍の器。仲間と、楽しげに話すのが酷く嫌だった。もっと―――もっと、不幸でどうしようもなければ、そんな風に思わなかったのに。
―――あのさ、突然だけど如月んちに居候してみる気、ない?
龍麻は酷くご機嫌だった。たしかに彼の言うように、その言葉は唐突だった。なにせまだ仲間になって間もなくて、あげくに如月とはさして話をしたこともない。そもそも如月に避けられていると思っていたから、当然渋ったけれど、龍麻はそんな劉を、ほとんど押し切るように話をすすめた。
―――やっぱりさ、その方が連絡もとりやすいし。
たしかにその通りだった。劉は携帯は持っていなかったから、呼び出すのには手間がかかる。
常々持てと言われていたから、それにはさすがにうまい言葉は浮かばない。
―――それに今はいいけど冬になったら寒いだろ。弟が風邪ひいたらお兄さんはとても悲しい。
自分はわざと龍麻のことをアニキと呼んだ。心の底からそんな風に思ったことは一度もなかったけれど、名前を呼ぶのはためらわれた。
龍麻はそれを簡単に受け入れた。本当は、吐き気がするくらい嫌だったけれど。
じゃあどうして柳生に斬られた龍麻を見て、動揺したんだろう。
見上げれば太陽はだいぶ西に傾いていた。春というにはまだ少し寒いこの時期、太陽も早くに身を隠す。今日は久しぶりに野宿になるかもしれない。
空を見上げ、ふと人の気配に足元に視線を落とす。ほとんど獣道だというのに人の気配がするのはおかしい。そう思った瞬間、劉の足元をふわ、と何かが通りすぎた。
それから遅れるようにしてやってくる笑い声。
「…あー…」
困ったように、劉は手を伸ばした。
小さな子供の笑い声が、辺りにこだましている。
やっぱり、と思った。
「迷っとるんやなぁ…やっぱり」
見覚えがあるわけではない。曖昧な輪郭で浮かびあがる子供の霊は、劉の前でにこりと笑った。
「お兄ちゃん、どこにいくの?」
子供の言葉は、懐かしい訛りのある言葉だった。客家の、自分たちの。
「…墓にな、行くんや」
子供は、劉の言葉に首をかしげた。言葉の意味がわかっていないのかもしれない。自分が死んでいることに気づいていないのかもしれない。
―――あの時。
柳生が復活した時、一族は自分以外全員殺された。
どうしてあの日あの時、自分だけは生き延びてしまったのかわからない。たった一人で。
自分も本当はこうなっていたのかもしれない。死んだことに気づかないでどこにもいかず。
「…泣いてるの?」
子供が首をかしげる。俯いたきり顔を上げられない。この子供はたしかに自分と同じ一族の子供だ。
「……墓、一緒に行こか?」
劉の言葉に、子供は不思議そうな顔をした。顔はまだ上げられない。
この子供との間の、どうしようもない隔たりが悲しい。自分は生きているけれど、この子供は違う。
「…連れてってくれるの?」
本当に突然、ふと如月とのやり取りを思い出す。
時間も押し迫ってきた時だった。如月が、はっきりとこちらを見ながら言った。
「考えてくるといい。君が忘れるべきものを」
そう言った如月の瞳が、ひどく真摯で、劉は金縛りを受けたように動けなくなった。
忘れるべきものがどんなものか。劉にはまだよくわからない。
「…翡翠ちゃん」
「なんだい?」
「もしも…その答え、わかったら。…ここに、戻ってきても…ええかな?」
甘えるな、とでも言われるだろうかと、思わず目をつぶった。今までのどんな会話よりも、この答えが一番聞くのが怖かった。
―――それがなんでだかは知らない。
「そうだね、別に構わないよ」
だから、自分は答えを探さなければならない。忘れるべきものがなんなのか。
子供の足でもついてこれる程度の緩やかさで、劉は沈み行く太陽を見つめながら歩いた。
子供は、時に先を行ったり遅れたりした。そのたびに、ふわりと感じる気配が増えていく。
(みんな、迷ってたんか…)
姿は見えたり見えなかったりした。
それでも、どこか懐かしい空気が辺りに漂っている。だから、一歩ずつ進むごとに、なんだかひどく泣きたい気分になった。
もうずっと、なくしていた気配だ。
当たり前のようにあったはずの空気だ―――自分に、優しい。
「あのねぇ」
子供が、嬉しそうな声で劉の前に躍り出た。
「…ん?なんや?」
微笑みながら屈んでやれば、子供は満面の笑顔を浮かべた。
「みんな、嬉しいって。弦月戻ってきて、お墓まで連れてってくれるから」
たった一人。
他の何もかもが死んでたった一人残されて、これ以上の地獄なんてないと思っていた。
「…知ってたんか?ワイのこと」
だから、柳生に固執した。歯を食いしばって、拳を握りしめて、地を這いながら、それでもこんなところで死んでたまるかと呪いの言葉を吐きながら。
「知ってたよ」
「…見ていたよ、弦月」
「君のことを、ちゃんと」
心臓に、直接伝わってくるようなあたたかい気配と、忘れていたあたたかい言葉が劉を包んだ。
どうしようもない優しさに、向けられる無償の暖かさに、忘れていた何かが音を立てた。
「だから嬉しいんだよ」
―――君は結局自分の不幸に酔ってるだけだ、世界で一番不幸だと思い込んでるだけだ。
ふと、如月の言葉を思い出した。
ああ、その通りだったとかみ締めた。自分はこの世界で一番不幸なのだと思い込んでいた。周りのことなど、考えもしないで。
「ごめんなぁ…時間、かかってもうた」
「いいんだよ。嬉しいから」
大切だった。大切で、なくしたくなかった。けれどそれは、あっさりと望みを絶たれて絶望の淵に立たされた。何も見えなくて、どうしようもなくて、形のあるものに縋った―――。
なんて愚かだったのか。
進む道のりが次第に暗くなっていく。太陽はほとんど山に隠れてしまった。
見上げれば東の空にはすでに星が瞬いている。
彼らの墓への道は、忘れてはいなかった。森の中。ほとんど道らしい道のなかったその先に、それはあった。森が開けたのかと思うほど、たどり着いたそこには木々はない。
「ここ?」
「…そうや」
優しく微笑んだ。その笑顔は、寂しさをたたえていたが、決して偽物ではなかった。
森の中、そこだけは空が見える。何にも邪魔されずに星が見える。月明かりら照らされる、唯一の場所。
「…ワイが、送ってやるさかい」
「うん」
「…ごめんな。迷わせて」
子供の姿が、うっすらと光を放つ。暗闇の中にその光は青白く輝いた。
そしてそれを合図にするように、辺りが一斉に青白い光を放つ。
それは決して眩しい光ではなかったけれど、劉はわずかに目を細めた。
目を閉じて、そのまま印を切る。
本当は。もっと話をしたい。いろいろあったと、いろんな人に出会ったと、弦麻の息子に会って、そして龍脈を守ってきたと伝えたかった。
「幸せになってね」
ふ、と耳元をかすめるように、青くて淡い光が空へあがっていく。声は、たしかにそう聞こえた。
見上げた空はすっかり闇に閉ざされた。月の光にも負けないような星が空を彩っている。
言葉の優しさに、僅かに視界が歪んだ。
しばらくその空を見上げていたが、ふと視線をおろせば、足元に小さな花があることに気づいた。
「………」
花の種類には特に詳しくないから、その花の名前はわからなかった。
小さな花は健気にそこに咲いている。気がつかなかったら踏まれてしまうような、普段だったら気にも留めないかもしれない。そんな花。
なんとなくその花から目が離せなくて、その場に座り込む。
「………なんやろうなぁ…ワイ。ほんま情けないわ」
この世にたった一人になった気になって、不幸にただ酔って、結局見えていなかったのは自分だけで。
―――考えてくるといい。君が忘れるべきものを
その言葉の意味すらわからない。
何を忘れて、何を心に留めておくべきか。簡単そうな問題は、いまだに自分の前に立ちふさがっている。
―――幸せになってね
どうやったら幸せになれるかなんてわからない。これからどうやって生きるべきか、それだってわからない。
それでも、送ってやった一族たちに誓ったのだ。もう二度と迷わせるようなことはしないと。
目の前には、小さな花。
花びらは白かった。闇夜に眩しいほどの白い花びらは、存在を小さいながらに必死に誇示しているように見えて、微笑ましい。
「………」
長いこと、嫌な夢を見ていた気がする。
目の前のものに盲目になって、それを必死に追いかけて、どんどん遠くに行った。
「…あぁ、そやな…」
今まで自分を縛っていたのは、復讐と、それからあの名前。全ての元凶になった、あの男の名前。
忘れることは出来なかった。片時もその名前を忘れることはしなかった。
心があの時の怒りを失いかけた時、呼んだのはあの名前だった。
小 さな花の名前を、知ろうとは思わなかった。調べれば済むことだろうけれど、それを知る必要はないと思った。
今までだったら、きっと見過ごしていたはずの花を、劉はただ眺めつづけた。
晴れたな、と外に出て空を見上げる。
朝はまだほんの少し肌寒い日もある五月の、その日の空は晴れ渡っていた。
劉が故郷に帰ってもう二ヶ月。
その間に変わったことといえば、あの戦いで知り合った仲間の数人が東京を離れたりしたことだろう。
劉もそのうちの一人だ。
そうやって空をしばらく見上げていたが、一つため息をついて誰も歩いていないはずの一本道の方に目をやると、少し遠くに人影が見えた。
「…劉」
こちらと視線があったことを知ると、照れくさそうに走り出す。
「久しぶり、翡翠ちゃん」
「…久しぶり」
嬉しそうに笑う劉に、如月はまだ笑顔は向けなかった。
その様子に、劉が頭をかきながら呟く。
「あんな、ワイ、いろいろ考えたんやけど」
「…あぁ」
「やっぱワイ、ここにいたいなぁ」
うかがうような眼差しを如月に向ければ、如月は肩を竦めた。
そして、真剣な表情で問い掛ける。
「君の、仇の名前。いえるかい?」
そしてその問いに、劉は薄く笑みを浮かべた。
答えはわかっている。名前を、忘れたわけではない。けれどその名前は、もう二度と口には出さないものだ。出す必要のないものだ。
そうして記憶の片隅においやって、忘れていくべき過去の名前だ。
だから、ゆっくりと答えた。
「さぁ、なんやったっけなぁ。もう覚えとらんわ」
その言葉を聞いて、しばらくの沈黙の後、如月の表情がゆるんだ。
ゆっくりと笑みを浮かべて、耳に染みる言葉が返る。
「おかえり、劉」
「…ただいま」
見上げた空は青い。あの土地に咲いていた花はきっと今も咲いているだろう。
その名前を、知る必要はないし、知る気もない。
ただ、きっとまたあの土地を訪れるとき、あの花が自分を迎えてくれるのだ。
そして劉は、小さく唇を動かした。
空へ。
―――幸せに、なるから。
声は空気を震わせなかった。けれどたしかにそう呟いて、笑った。
もうとらわれたりはしない。過去を振り返って苦しむことも、もうしない。
大丈夫。幸せになる。
そうして、劉は如月の後に続いた。
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