LIFE 4th▲3







 突風が吹いた。
 驚いて目を閉じ、とっさに頭を庇う。
 そして次の瞬間、その風が連れてきた匂いに、壬生は身体を硬直させた。
(まさか…!!)
 顔を上げた壬生の目にうつったそこは、予想通りの光景だった。
 一面の緑と高い空。出来れば二度と来たくなかった場所で、そう思った途端に広がる孤独感に、壬生は小さく舌打ちした。
「…普通じゃないよ、まったく」
 この広すぎる草原で、立ち止まれば足を取られるこの場所で、いつまでも歩き続けて孤独を感じないのか。こんな場所が龍麻の心象風景なのだとしたら、それは―――なんと思えばいいのだろう。
 口にした以外の言葉は出てこなかった。
 逃げ出したい気持ちにかられたが、振り返ったところで出口はない。
 とにかく歩くしかなかった。出来るだけ前へ進むことだけ考えよう、そう念じながら一歩目を踏み出す。雑草を踏む、柔らかい土を踏む、その心地良さはしばらくの間だけだ。
 なるべく囚われないように歩くその先、視界の隅に何か光るものが見えたのはどれほど歩いた頃だっただろう。
「!?」
 慌てて目をこすれば、すでにそれは見えなくなっていた。思い過ごしだったのだろうか、と眉を顰める。やけに眩い光を放っていた何かがこの先にあったはずだった。
 壬生は一瞬の逡巡の後に、方向を変えた。どうせどっちへ行けばいいのかなんてわからないのだから、と自分を納得させると、思い切って走った。
 早くいかなければいけないような気がしたのだ。
「…ここらへんだったと…」
 視界の隅に僅かにとらえた眩い光が見えた辺りに立つ。が、輝きを放つようなものはどこにもなかった。あるのはただの草と土だけで、それ以外のものなどあるわけもない。
 わかってはいるが、あの光はなんだったのかと―――そう思うと緑が揺れた。まるで「何もなかったんだ」と言い聞かせられている気分になる。
 その瞬間。
 背後に何かを感じて、壬生は慌てて振り返った。
「た…たつま!?」
「……なんでここにいる?」
 素っ頓狂な声を上げた壬生に対して、龍麻は冷ややかな視線を返した。声もどことなく冷たい。万年無駄に元気な龍麻にしては珍しい表情だった。
「そんなの僕が聞きたいよ」
「…まぁ、いいか。行こう」
(あれ?)
 思わず首を傾げた。いつもの龍麻だったらもっと絡んでくるような気がして、拍子抜けする。
 先を歩いていく龍麻は、振り返ろうとはしない。しばらくその背中を見つめていたが、壬生は意を決したようにその背中を追いかけた。
「行くってどこへ行く気なんだ?」
 壬生の問いに、だが龍麻は答えない。しばらく答えを待ったが、どうやら龍麻は答える気がないようだった。ほんの少し、苛立つ。
「龍麻?」
「なんだよ」
 あからさまに不機嫌な声が返ってきた。うるさいと思われたのかもしれない。いつもは自分の方がうるさいくせに、と思ったが口にはしなかった。
(…なんだろう)
 違和感が膨らむ。目の前を歩く龍麻に、妙な違和感を抱く。
 ほんの少しいつもと違うだけなのだが―――たとえば動きそのものは決して龍麻以外の何者でもなかったし、声や顔だって何が違うわけでもない。なのに、この違和感はなんだろう。
「龍麻」
「だから何だよ」
「…君、本当に龍麻かい?」
 思わず、口をついて出た。その言葉にハッとして顔を上げれば、龍麻がこちらをじっと見ていた。
「…どういう意味だ」
「いや…なんていうか、ちょっと変だな、と思ったから」
 歯切れ悪く告げれば、龍麻の表情が一変する。それは、見たこともないような彼らしくない笑顔だった。
 途端に感じる黄金色の氣のようなものに、壬生は慌てて間合いをとった。
「俺は―――緋勇龍麻だろう?」
 その言葉に、壬生は全身で警戒する。
「…違う」
 いつもの龍麻はもっと違う。何が違うのかははっきりとはわからなかったが、そう思った。
 もっと―――何が違うのだろう。決定的に違うのはわかったが、どこが違うのかがわからない。黙っていると、龍麻は穏やかな声で、彼らしくもなく微笑んだ。
「俺は緋勇龍麻だ。おまえがそう呼んだはずだ」
 氣の膨れ上がるのがわかった。とっさに、戦うことよりも逃げることを選んだ。素早く土を蹴る。
 その行動こそ自分らしくなかったが、あの場にあれ以上いてはいけない気がしたのだ。
 空を見上げればいつの間にか青空は消えて、暗雲が覆っていた。吹き抜ける風は肺が重くなるような、べっとりとした感触すらあった。
 この草原で感じる風はもっと澄んでいたのではないだろうか。こんなに肺に纏わりつくような空気だっただろうか。走りながら、そう思う。
 空はもっと遠くて、広かったはずだ。こんな、暗雲の垂れ込める空ではなくて。
 ―――なんだろうこれは。この違和感は。
 途端に目の前に黄金色の氣を感じて、壬生は足を止めた。どこをどうすれば、という速さで龍麻が自分の目の前に立っていた。髪の毛一本たりとも乱れていない。
「―――行こう」
 す、と差し出された手に、壬生はとっさに攻撃を繰り出していた。
 それはもう、条件反射に等しい。この身体が、本能で目の前の彼を緋勇龍麻だと認めていなかった。
「何するんだ!」
 壬生の攻撃をからくも避けた龍麻がこちらを睨みつけてくる。
 前進から感じる黄金色の氣。その凄まじい氣の強さに、壬生は肌が粟立つのを感じた。
「―――違う、違うんだよ。龍麻はそうじゃないんだ」
 途端に、突き抜けるような強い風が吹いた。暗雲の垂れ込めていた空に青空が見え始める。
 雲で遮られていた太陽の日差しが草原に降り注ぐ。その様は、言葉にしようのない美しさだった。
「龍麻は自分のことを黄龍だって言うんだ。誰に言われるより先に。龍麻は自分が疑われるようなことをしたら言葉よりも先に力なんだ」
 口にしてみて、壬生は思わず笑い出してしまった。
 考えれば考えるほど、自分の知っている緋勇龍麻はどうしようもない奴だった。
 フォローのしようがない。
「―――そんな奴より、俺の方がいいと思わないか」
 目の前の龍麻がそう言って笑った。黄金色の氣を放つ彼は、その目が穏やかだ。
 これが本物の緋勇龍麻だったら。なんて理想的な男だろう、とそう思うだろう。
(だけど違う)
「…残念だけど」
 揺れている緑が綺麗だった。よく見れば、緑の色は全てが違う色だった。綺麗だ、と本心からそう思う。
 ここに立ってからはじめてそれを知って、この地が生きているのだと知る。
「僕の知ってる龍麻は常識が通用しないんだ。―――僕は、そういう龍麻といる方が好きだな」
 最初は、それこそいちいち驚いた。腹を立てたりもした。今だって時々もっと普通にしろと言う。けれどそれは、あの龍麻だから言うのだ。
 この広大な草原を、孤独も感じず歩いていけるという。意地になって歩くことを止めないという。そんなことが出来るのは、自分が知っている限り一人だけだ。
「…おまえらはおかしい」
 小さな声で、龍麻がそう言った。
「そうだね。でも別にそれでいいんだ、僕は」
「―――俺がよくない」
 その言葉の意味を聞くよりも早く、強い風が辺りを駆け抜けた。
 次の瞬間にはすでに彼はいなくなっていて、目の前にはあの草原だけが広がっていた。
 見上げる空はすでに雲一つない青空で、重苦しい空気は消えていて、あとはもう、走り出したくなるような気持ちの軽くなる―――その清々しい大気を大きく吸い込んで、壬生は走り出す。
 どこに行けばいいのかはわからなかったが、この草原のどこかに本当の緋勇龍麻がいるはずだ。
今はとにかくその顔が見たかった。
 そして気づく。
 こんな気分で走るのは久しぶりだ、と。




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