二:金魚

 気がつくと、どこかの神社の参道だった。
(またやってしまったかな)
 眠っているわけでもないのに、夢遊病のように、僕はこうして時々意識のないままにどこかの場所にたどり着いている。
 珍しいことではない。
 今まではそれが例えば二つ向うの町であったり、屋敷の納戸だったりした。
 だが、今日は社の参道。
 祭、だ。
 僕はゆらめく提灯のぼやけた灯りを見上げた。
 夜見世が並んでいる。でも何故か人気がないように思える。
 参道にもそこかしこにも、祭に集まった人々がいるはずなのに……いや、目には彼等が映っているのに……なぜかそこはとても空虚な場所だった。

「にいさん」
 背後から突然声をかけられる。
 振り向くと、小さな夜店の奥に俯いた男が座っている。男の前には……
(硝子でできているのか? なんて綺麗な……)
 硝子で出来た長方形の桶があり、水がなみなみと張られて、その中には色鮮やかな愛らしい金魚が。
 ひらひら、所狭しと泳いでいた。
「金魚すくい、やらないかい」
「……………」
 その光景はとても幻想的で、朴念仁と笑われる僕の心ですら多少揺さぶられた。何よりも四角い硝子の中で泳ぐ金魚達の可憐さ……。金魚は屋敷でも母が、水桶に放して可愛がっているけれど、………
(金魚は、こんな魚だったかな?)
「お代はいらないよ。放生会だからね」
 男は俯いたまま、そうつぶやいた。頭にてぬぐいを巻いて、口元に薄笑いを浮かべている。
 屋敷の水桶にこの金魚を放したら、きっと華やいで、少しは母の心を慰められるかもしれない。
 僕は、人として至らぬままの息子に胸を痛める母を思い浮かべる。
 そのとき、僕の胸も鈍く痛むのだ。
「じゃあ、少しだけ」
 答えた僕に、男は俯いたまま、笑ってうなずいた。

 薄く頼り無い紙の張られた、金魚すくいの『網』。
 僕は慎重に、破れやすいその網を、硝子桶に差し伸べた。目の前に、可憐な一匹の金魚がひらひらと近付いてくる。
(この子にしよう)
 そう思って、たっぷりとした水にそれをつけようとした、そのとき。
「お代に寿命を取られてもいいの?」
 誰かが、耳もとで囁いた。

 ふわりと、水辺の花のような香りが……………漂う。
 僕は驚いて振り向いた。すぐ目の前で、大きな硝子玉のような瞳がこちらを見ていた。
 金魚すくい屋の男はうつむいたまま、無言だ。硝子玉の瞳の持ち主は、ひょいと身体を引いて立ち上がった。
 それは、振り袖姿の若い……歳の頃は十六、七くらいだろうか?……娘だった。 
 娘は、癖の強い長さのまちまちな髪を無理矢理のように赤い絹紐で結んでいた。振り袖はたっぷりと袖を垂らし、太い帯で飾っており、その帯をまるで江戸の昔の町娘のようにだらりと後ろに垂らしている。
 長い袖には蒼い鱗模様。その上に、目にも鮮やかな緋色の金魚が舞っている。
 こうしてみると、娘の癖の強い髪は金魚の鰭のように見えなくもない。短い毛先が外側にゆうるりと跳ね上がっている。それが風に吹かれてゆらゆらと揺れる。
 それがまるでこの硝子桶の金魚たちの長い鰭のように見えた。
「小父さん、お社様の赦しをもらってここで商売しているのかい」
「………………」
 店の男はうつむいたまま。
「あの………この金魚、すくうと寿命が取られるって…」
 僕の問いに、娘はにっこりと微笑んだ。
 思わず………目を奪われる笑みだった。
「ああ。この金魚なぞ助けたら、金魚に寿命を取られてしまうんだ」
「……………」
 僕は硝子桶の中の可憐な生き物たちを見下ろす。
 金魚の寿命とはどれくらいのものだろう?
「構わないよ」
 僕の答えに、娘は目を丸くした。
 ………愛らしい。
「この金魚がもらえるなら、僕の寿命が1年や2年縮んだって…」
 母はこの金魚を喜ぶだろうと、僕は考えていた。
「百年生きる金魚がいないとでも?」
 娘はくすくすと笑った。
「千年、万年生きる金魚がいないとでも? この金魚は、そうやって救ってくれた人から寿命を奪って永生きするんだよ。なんて惨(むご)い話だと思わないかい?」
「………寿命を、奪う?」
 僕はまた硝子桶を見下ろす。可憐で美しい魚だ。こんな金魚はやはり見たことがない。
「………でも、こんなに綺麗で可愛い金魚が一時でも自分のものになるのなら、それもいいかもしれないな。……惨いことだろうか?」
 そんな魚を命と引き換えにしても母に持ち帰ったら……、自分の手で母の笑う顔が一度でも見れたら。
 娘は首を横に振った。跳ねた髪が、金魚の鰭のようにひらひらと舞う。
「人に惨いんじゃない、金魚に惨いんだ」
「え………?」
 彼女の白い両手がそっと伸びて、僕の顔を挟み込んだ。僕の心臓が、とんと跳ねた。
「どうして、自分をすくってくれた人の寿命など奪いたいものか。その人の手で慈しんで飼われたいと思っても、その人の命を吸い取ってまたこの硝子桶に沈む運命(さだめ)なのだよ」
「…………そう、なのかい?」
 僕が答えると、彼女は頷いた。そして、金魚すくいの男に振り返る。
「小父さん、さっさと店じまいをしてしまうんだね。お社様に言うよ」
 男は黙って立ち上がる。
 そして、筒袖の袖口を硝子桶に突っ込んだ。
 桶の中の金魚達が、吸い込まれるように袖の中に消えていった。
 後に残った硝子桶を、彼は後ろの小川に放り込む。
 見る間に硝子桶は水になって、小川に溶け込んでしまった。
 そして、次にはその男自身も、小川に足を踏み入れ、やがて溶けてなくなってしまった。
 後には、男が腰かけに使っていた、丸太だけが残った。

「………………」
 僕は呆然とその、不思議で、美しい一連の情景を見守った。
 これは、ゆめだろうか……?
「……君は、だれ? 名前を教えてくれるかい?」
 振り向いた僕に、娘はまたあの美しい笑顔を見せた。
「金魚」
「え……?」
「私の名は金魚」
 金魚………。
 とても相応しい名前に思えて、僕は口に出して呼んでみた。
「金、魚」
「なんだい、遠夜(とおや)?」
 彼女がそう、答える。
「とおや?」
「親のくれた名をここではけして口にしてはいけない」
 金魚はそう囁くと、僕の耳に唇を寄せてもう一度呼んだ。
「お前はここでは遠夜という名前。遠い夜と書くよ。とおや、だ。いいね?」
 彼女の唇から涼やかな香りが漂う。
 振り向いた僕に彼女はもう一度呼んだ。
「遠夜」
 それは僕の名前。彼女がつけてくれた僕の名前だ………。
「なんだい………金魚」
「お前の名前は?」
 金魚がもう一度問う。
「僕の名前は………遠夜」

 この日から。
 僕は金魚の住まう世界へ、足を踏み入れることになったのだ。

金魚・了