三:梅雨

 母の古い知己の家へ、僕は使いに出された。
 まだ青い梅をもいで蜜に漬けてある小さな壷。それを、ふろしきに包んで抱えると、僕は表通りへ出た。
「先方にはよくお願いしてあるから」
 と、母は出がけにそう言った。
 何をお願いしているのかわからないのだが、とにかく僕はこの包みをそこへ届ければいいだけの話だ。
 先方の家は遠くも近くもない。
 僕はただゆっくりとその家を目指して歩いた。

 いくつめの角を曲がったときだろう。
 ふいになにかが、僕の目の前を過った。
 あ、と、思う間もなく僕は胸に抱えていた包みを取り落とす。
 陶器の壷だから、地面に落としたら割れてしまうかも………
 慌てて延ばした手は間に合わず。
 そして。
 地面で粉々になるはずの壷の包みさえもが。
 もう、どこにもなかった。

「……………………」

 一体どこへ消えてしまったのか?
 呆然とする僕を置き去りにするように、街の音までも姿を消した。
 無音。
 僕ははっと顔をあげる。
(しまった)
 気がつけばそこはもう、さきほどまでの通りではない。
 僕ももはや四辻音哉ではなく、遠夜と呼ばれる人間になっている。
「蜜梅の壷………盗られてしまったかな」
 情けない話ではあるが、僕はいつも唐突にこちらの世界に迷い込んで、そして自分一人で帰る術も持たないのだ。
 金魚が………彼女がいなければ。
 とはいえ、一人で帰れたとしても土産を喪失してしまった。手ぶらで戻ってなんと言い訳をしたものか?
 道に落として割ってしまっとでも言う他はあるまい。
 あるいは川に落としたとでも?

(……まるで子供の使いだな………)

 ため息を落とすと、肩をぽんっと叩かれた。
 振り向いた僕の鼻孔に、あのゆかしい香りが漂う。
 目のすぐ下にある、澄んだ硝子玉のような大きな瞳。
「……………金魚」
 名前を呼ぶと、彼女は大きな瞳を緩ませてこちらを見た。
「どうしたんだい。遠夜。うちの家の前まで来たのなら、寄っていけばいいのに」
「え?」
 顔を上げた先に、古い屋敷があった。門の木戸が少し開いていて、今そこから金魚が出て来たばかりなのを教えている。
「ここは、君のうちなのかい?」
「そうだよ。さあ上がってお茶でも飲んで行くといい」
 金魚は僕の腕を取ると、ぐいとひっぱって屋敷へ誘った。
 屋敷の庭には立派な植木が何本もあり、そのうちのひとつに青い梅がたわわに実っていた。

「お使いの土産の青梅の蜜漬を、盗られたんだって?」
 不思議な香りのする清涼感の強い冷たいお茶を、硝子の器に入れて出すと、金魚はそう、言った。
「たぶん………。目の前を何かが過って行って、包みを取り落として、取り戻そうとしたらもう無かった」
「ふうん………。まあ、そう気落ちすることもないよ。青梅でも食べるといい」
 彼女はこともなげにそう答えると、庭に降りて木になっている大粒の青梅をふたつみっつ、もいだ。それをぽんとこちらに放る。
「えっ……これを食べるのかい?」
 見事に青い、酸苦そうな青梅だ。
「甘くて美味しいよ」
 金魚は綺麗な白い歯を見せると、それをカリと噛んで含んだ。
「………………」
 言われるままに、僕もその実に歯を立てた。
 カリリという微かな音がして、青い実の破片が口の中に落ちた。

 甘い………。

 もう、これだけで蜜に漬けた梅のような味がする。柔らかくはなく、硬いが、噛む程に甘味が広がる。
 これはいったい………。
「俗世の梅は面倒だね。蜜に漬けないと甘くならないのだから。漬けたら漬けたで、頼り無く柔らかくなってしまうし」
「でも梅干しは……?」
 こんなに甘くては梅干しにするのは面倒ではないだろうか? よくわからないが。
「そうそう梅干し。あれはいいねえ。あれはこちらでは手に入らないんだ…」
「そ、そうか……」
 そもこちらの世界で言う所の梅というものが、よくわからない。
『梅干しとはなんぞや』
 ふいに、庭の方からかん高い声がそう言った。
 僕は驚いて声のする方を探したが、姿は見えない。金魚は驚く風もない。
「俗世の梅さ。塩辛くて酸っぱくて、甘い。お前の知ってる梅なんぞとは天と地ほども違う梅さ」
『どこにある。それはどこにある!』
「俗世にあるよ」
『……………ぬう』
 かん高い声は悔しそうに呻いた。
「食べてみたいか」
 面白そうに金魚が言う。声の主はまたなにか呻いた。
「頼んでやらなくもないよ」
『…………見返りはなんぞや』
「盗んだものをおよこし」
『……………』
 声の主は沈黙する。金魚はなおも言い募る。
「ひとつでも損なっていたら、赦さないよ」
 やがて、声の主は承諾したものか。金魚はやや身体を屈めると、ぬれ縁の下から何かを取り出した。
 それは僕の喪失したふろしき包みだ。
「遠夜。なくしたものはこれだろう」
 彼女はこともなげにその包みを僕の前に置いた。
「あ、ありがとう……」
『まだ開けてもおらん』
 面白く無さそうに、声の主は言う。
『さ、梅干しの算段を取り付けてくりゃれ』
 金魚は柱にもたれたまま、カリリと青梅を噛んだ。
『これ、家刀自どの! 梅干しの算段を、のう』
「盗人に払うお代はないよ」
『な、なんと、たばかってか!!』
「馬鹿」
 金魚は食べかけの硬そうな青梅をぬれ縁の下に向けて投げ付けた。
 ギャッというような、妙な声が聞こえた。
「今度そんな悪さをしたら、鍋にして食ってやる」
 背中を向けた金魚が今どんな顔をしているのか、僕には見えないからわからない。口調もいつもの彼女だったが、それがどのような効果を相手に与えたものか。
 突然、ケーッ! というようなけたたましい鳴き声がしたかと思うと、何かがびゅっと、飛び上がって屋根の上の方に駆け上がって行った。
 その姿が見えたのは一瞬だったが……あれは………

 鶏、に似ていたように思える。

「庭の青梅を禁じているから、梅の匂いがするとああやって見境なく飛びつくんだ」
 すまなかったねと、振り返って呟いた金魚は相変わらず愛らしい姿だった。
「あげられないものなのかい?」
 僕はあの小さな鶏のような、あわれな生き物が少し可哀想になってそう言った。金魚は微笑むと首を横に振った。
「いろんな決まりごとがあるのさ。破ってしまったらもっと辛い思いをしなくてはならないんだ」
「梅干しも駄目かい」
 金魚はその言葉に目を丸くした。
 次に嬉しそうに笑った。
 花が開くようだった。
「俗世のものなら大丈夫だ」
「それなら、今度手みやげに持ってこよう。母の漬けたものがあるから………」

 母、という言葉を出した次の瞬間、僕は家の台所の土間に立っていた。
 手にはふろしき包みを持ったままだ。
 廊下の奥から現われた弟が、その僕を見て素頓狂な声を上げた。
「わあ! お母さま!! に、兄さまが!!!」
 弟の声に廊下をどたどたと走る数人の足音がした。
「音哉、お、お前!」
 振り向くとやつれた顔の母がいた。

 僕は使いに出てから3日も姿を消していたという。
 ふろしき包みを開けてみると、梅の蜜漬は梅干しに変わっていた。