四:三色振袖

 僕が母の使いに行き損ねた日から数日後のことだ。
 このところ毎日、梅雨のさなかだからか、ひどい雨が降っていた。
 近所に仲良くしてもらっている書生さんが住んでいる下宿屋があり、僕は借りていた本を返しにそこへ向かった。
 下宿屋は未亡人とそのお嬢さんが家主で、広い家がもったいないし、女所帯で不用心だからと身元のしっかりした書生さんを下宿させるようになった。僕が知り合った室生さんという書生さんも、質素ながらもいつもこざっぱりした着物と袴を身につけていて、いつ会ってもにこにこと笑っているような人だ。

 その家は僕の家からはさほど離れてはいないのだが、雨の中傘をさして歩き出し、ひとつめの辻を曲がった辺りで見覚えのない道に出た。
 また、『あちら』側へ迷いこんでしまったか? と僕も一瞬、緊張した。
 だが、その道は−−−家からはかなり離れた道の路地であって、けして家の近所の道ではないのだが−−−見覚えのある『こちら』側の道だった。
 僕は驚いてその場に立ちすくんだ。
 この先に大通りがあって、図書館などもある町の中心部だ。僕はその図書館にときおり通っており、室生さんともそこで知り合いになったのだから。この路地は、そのときに通る近道でもあった。
 なぜ家の側の道からいきなりこの道へ来てしまったのか?
 すると、路地の果ての右側の壁から何かが見えかくれしている。
 なんだろう、と目をこらすと、それはどうやら振袖の袖の裾のようであった。
 淡い橙色のような……栗色のような………そんな色の袖が壁の影から出たり入ったりしているのだ。
 まるで壁のすぐ向こうで行きつ戻りつでもしているような。
 なんだろうとすぐに思った。
 僕はそのまま歩いて大通りへ出る路地を抜けた。

 と。

 その先には大通りが開けているはずなのに、そこには小川があって、雨がざんざんと降り込んでいた。
 振袖の袖の主を探すと、右手に傘を深くさした人が立っている。
 こちら側に向けて深く傘をかぶるようにさしているので、胸のあたりから上はまったく見えない。
 ただ、長い振袖と、着物の下半身、そしてだらりと下げた帯の模様が見えるだけだ。
 変わった模様の着物だった。
 茶色と橙と濃茶の三色の色でまだらに染められているだけで、他は白地。模様はないかとみると、細かな毛のような白い斜線が色のついたところには細かく細かく入っている。帯は無地の白。白い足袋の足にはうす桃色の下駄を履いている。鼻緒は淡い黄土色。
 裾に綿の入った古めかしい振袖だ。
 それがじっと、雨のなか傘を傾けて小川の方向を向いているのだ。
 僕はそのまま視線を転じて小川の向こうを見た。
 対岸には見事な紫陽花が連なるようにたわわに咲いている。青い小道のようだ。
 そこを、傘をさした書生が歩いていた。
 すらりとした背の高い男で、傘を傾けたときに顔が見えた。
 鼻筋の通った、目もとの涼しげな美青年に見える。
 懐に大事そうにふろしき包みを入れている。
 図書館帰りだろうか?
 やがて彼は紫陽花の道の奥に消えていった。
 こちら側に立っていた振袖の娘も、気がつくといなくなっている。
 おやと思ってまた小川に目を転じると、

 そこはもう、見なれた大通りだった。

「音哉くん、音哉くんではありませんか?」
 ぼんやりと路地の出口に立ち尽くす僕にかけられた声に我に返ると、右手に室生さんが立っていて、傘の下から手を振っていた。




「図書館にご用だったんですか?」
 僕は室生さんと肩を並べて来た道を戻った。
「ああ……ええ、まあ」
 と曖昧な答えを返すしかできない。本当は室生さんに本を返すために下宿屋へ向かっていたのだが。
「今日は、お世話になっている先生に珍しい外国のお菓子をいただいたので、良かったら私の部屋に寄って、音哉くんもお茶を飲んで行きませんか」
 そう、誘われた。
 一人で戻ってちゃんと家まで帰れるだろうかとなんとなく思っていた僕は、その申し出にとりあえず頷いた。
 なぜなら先ほどの不思議は、まだ完結していないような気がしていたからだ。
 このままふらふらと歩いて戻っていたら、途中でまたどこかで妙な足止めをされそうな……そんな気がしていた。
 僕は室生さんについて、下宿屋に行き、彼の部屋にお邪魔した。



「やあ、今日も凄い雨だったね。戻って来たら裾がびしょ濡れだったよ」
 室生さんが部屋のふすまを開けようとしたところ、隣室のふすまがすっと開き、そこから誰かが顔を出してそう、声をかけてきた。
「入江さん、お出かけだったんですか」
 にこやかに答える室生さんに、その入江と呼ばれた男は微笑んだ。
「さっき図書館から戻ったところだよ。途中の道がぬかるんで往生したんだ」
 僕はあっと思ってその場に固まった。

 さきほど紫陽花の咲く小川沿いの道を、歩いていた書生ではないか。

「音哉くん、この人は僕と同じ、ここに下宿をしている書生で、入江さんという人です。入江さん、この人は音哉くん。ほら、4軒先に立派な商家があるでしょう。あそこの坊ちゃんですよ」
 入江さんは整った顔を綻ばせてこちらに挨拶をした。
「珍しい外国のお菓子をいただきました。入江さんもいかがですか」
 結局、僕とその入江さんが室生さんの部屋でお菓子をいただくことになった。



 お茶を入れる室生さんの横で、座って皿を並べている入江さんを僕はぼんやりみていると、すうっと背後のふすまが動く音がした。
「今日もお出迎えだったんですか? 入江さん」
 室生さんがそちらへ視線を移したあと、そう、入江さんに尋ねる。入江さんは顔をあげると、嬉しそうに笑った。
「ああ。戻ったときは足下もびしょぬれだったから大変だったよ。冷たいというのにね」
 なんだろうと思ってふすまの方をみると、首に赤い紐を巻いた三毛猫がするりと入ってきたところだった。
 三毛猫は当然のような顔でしたしたと畳を歩いて行くと、座った入江さんの膝にあがった。
「入江さんはミケの旦那様ですからねえ。音哉くん、この猫は入江さんが戻ると必ず玄関までお出迎えするんですよ」
 室生さんが笑う。入江さんは微笑んで三毛猫の背を撫でた。
「動物が好きなんだ」
 そう、優しい声で応えた。
 ごろごろ、と、遠雷のような音が、三毛猫の喉から漏れ聞こえた。
 何故か猫の後ろ足の先が、しっとりと濡れているように見えた。
 足裏の肉球は淡い桃色だ。その隙間の黄土色の毛が濡れてくっついている。
 まるで雨道を歩いてきた人の足裏のようだった。
 猫のくせに。

 そうか………
 お前だったのか。

 僕がそう思うと、三毛猫は片目だけを開けてこちらを一瞥した。
 それは僕が初めて見た、あちらの世界ではない、こちらの世界での不思議な出来事だった。