六:形代

 朝食の後、部屋の掃除をしていると母から呼ばれた。
「お客さまに御挨拶をなさい」
 と言う。
 今まで、商いの客に僕が挨拶をした試しはなく(この家の跡取りは弟であるし)、ならば母か父の知人でもあろうか。僕は雑巾を片付けると、客が来ているという座敷へ足を向けた。
 襖の前で手をついて、「音哉です」と声をかけると、中から母の「おはいんなさい」という返事が返ってくる。襖を開けてちらと客の様子を伺ってみたところ、上座にきっちりと正座して座っているのは、僕の見た事のない人物だった。

「牟田さんと仰るの。お母さまの古い知り合いの方なのよ」
 僕はそう母に言われて、はあと頷いてとりあえず頭を下げた。
「音哉と申します」
「………うむ」
 頭越しに低く頷かれて、ふと顔をあげた瞬間に、身体が金縛りにでもあったかのように固まった。
 だがそれは一瞬のことで、僕は恐る恐る頭をあげる。
 目の前に、応接台を挟んで座っている人は、恐ろしいほどの鋭い眼差しでこちらを睨んででもいるようだったからだ。
「あのね、音哉……」
 言いにくそうに、母が言った。
「お前、そのう……ときどき、正体がなくなったり、姿が見えなくなったりするでしょう?」
「は、はい……」
 母の言わんとするところがなんとなく見えてきた。
「牟田さんはね、そういうことに詳しい方で……ねえお前、相談に乗っていただいたらどうかしら。ね?」
 僕が相談に乗るというよりは、母が相談に乗ってもらっていたのだろう。
 祈祷師とか、拝み屋とかいうような人なのだろうか。
 眼光の鋭さ以外は、鈍色の尋常な着物を着て、黒い髪を後ろになでつけた、歳の頃は20代も後半ほどの…わりあい整った顔だちをした男性だと思う。武家のむかしには、こういう武士がいたんじゃないなかと思わせるような、見に纏った厳しい雰囲気がとても近寄りがたく感じさせはするが。
「ねえ、来明(きあき)さん、音哉はどうかしら?」
 母は身を乗り出すようにして尋ねる。
「御心配には及ばないでしょう」
 牟田さんは、低い声でそう母に答えた。
「で、でも……3日も姿を消したり、思わぬところにぼんやり立っていたり……心配で……」
 母の声が切迫していて、僕も胸苦しくなるようだ。
 僕自身はこちら側から姿を消している間は、金魚と出会っていたり、不可思議なものを見聞きしたりしているが、その間母はいなくなった僕の身をずっと案じているわけで……。
 今さらながらそれを再確認させられて、僕は言葉をなくした。
「紀代香さまが心配なさるのも無理はありますまい。が、あまり心配を過ごされてもよくありません。音哉くんの奇癖はいわば、神隠しのときから発病した病のようなものです。現実の病と違う所といえば、発病したからといって、具合を悪くしたり死ぬ事はないというだけで」
「や………やまい……」
 母は、胸を押さえて困ったように俯いた。
 すると、それを見た牟田さんは、鋭い眼光をいくぶんやわらげて、いたわるように母を見た。
「まあ、私の方でなんらかの処方はいたしてみますが……それよりも、紀代香さまが音哉くんの僻に慣れてしまわれた方が良いでしょうな」
「……………」
 複雑そうに黙り込んだ母をよそに、牟田さんは僕をみた。
「音哉くんは、自分の癖をどのように受け止めている?」
 僻……とはつまり、僕が知らぬうちに金魚たちのいるあの場所へ迷い込んだりすることだろうか……。
 それは、母が悲しむのでそのことじたいは辛い。
 けれども−−−金魚に会えるのが嬉しいのも本当だ。
 ただ僕のその僻のせいで、母が心痛を深めるのは本意ではないし……。
「僕は自分ではどうしようもないのですが、僕ひとりのことなら、そう大した事ではないのです。ただ、母がそのことで辛い思いをするのは、僕の望むところではありません」
「できれば治したいと思っているか?」
 牟田さんはさらにそう尋ねてきた。
 治したい……この奇癖が治る。
 そうすると、もう二度と金魚の住まう、あちらの世界には行けなくなるのか……。
 僕の面に現われた逡巡を、牟田さんは見抜いたようだった。
 彼は軽く頷くと、母に向き直った。
「少し、音哉くんをお借りしてもよいですか」
「は? ………はい?」
 驚いたように顔をあげる母に、牟田さんは言った。
「妻が持たせてくれた土産を、うっかり置いて来てしまったのです。音哉くんに私と共に来てもらい、持って帰っていただきたいのだが。なまものなので、急ぎます」
「そ、そうですか、はい、わかりました。音哉……牟田さんのお供をしてさしあげて?」
 母に言われて、僕は素直に頷いた。
 僕は、牟田さんについて、牟田さんの家を訪れることになった。


 もしかしたら、以前母が梅の密漬けを持たせてよこそうとしたのは、牟田さんのお宅だったのかもしれない。
 僕はそう思いついて、なるほどと牟田さんの背中を見た。
 牟田さんは振り返ると、僕を見た。
 間近でよく見ると、牟田さんは左右の目の色が違っているように見える。遠目ではほとんどわからないが。
「……ん、ああ。俺の目か? こちらは義眼だ」
 なんでもないことのように、左目を差すと牟田さんはそう言った。
「あのう………母とはどういう?」
「俺の母親がお嬢様……紀代香さまの御実家で女中頭をやっていたんだ。紀代香さまには、子供のころに御実家にお邪魔しては、ときおり面倒をみていただいた」
「あ、そうだったのですか」
 この人にそんながんぜない頃があったのかと、少々想像しにくい牟田さんではあるが。
「牟田さんは、祈祷か何かなさるのですか」
「俺か」
 低い声で、牟田さんは答える。
「俺は坊主だ」


 牟田さんのお宅は我が家からは歩いて少々かかるが、なるほどお寺であった。
 お坊さんというのは常日頃から法衣を着て生活しているような印象があるが、そうでもないのだなと僕は妙に感心した。そういえば、牟田さんは髪もおろしていないようだ。
 お寺さんといっても宗派によっていろいろ決まりごとも違うらしいから、そんなものかもしれない。
 現に、牟田さんのお寺には墓場がなかった。敷地も狭いし、お寺自体もあまり大きなものではない。
 檀家をとって御葬式などを営むようなお寺ではないのかなと僕は思った。
「まあ、あなた。玄関先におみやを置き忘れて行かれたでしょう」
 門をくぐって、お堂の脇の住居の扉に牟田さんが手をかけようとしたら、お堂の横あたりから女の人が現われて、そう声をかけた。
「ああ。だから、四辻の長男を連れて戻ってきた」
「まあ」
 女の人は、黒い綺麗な髪を肩のあたりで切りそろえたままで結いもせず、たすきがけした袖から出ている手を、えぷろんで拭きながら目を見開いた。
「妻のれいだ。れい、紀代香さまの御長男で、音哉くんだ」
「お邪魔します」
「わざわざごめんなさいね。この人が持たせたものを上がり框においていくものだから。……上がってお茶でもおあがりなさい」
 れいさんは、とても綺麗な女の人で、彼女は微笑むとそう言って、住居の脇に姿を消した。


 僕は、牟田さんが土産物を忘れてきたのはわざとであって、最初から僕をここへ連れてくるための口実だったのではないかと思っていた。
 このあとお堂にでも連れて行かれて、ご祈祷(お寺だけれど)のひとつでもあげられるのではないかと。
 だが、座敷に上げられて、美味しいお茶と、それからお茶うけをいただいて、奥さんのれいさんがその土産物を包み直して持って来てくれるまでの間、牟田さんは特別何もしはしなかった。
 何か向こうからまた尋ねてくるかとも思ったが、牟田さんは別に何も言わず、黙って座っていた。
 本来とても無口な人のようだ。
 僕は面喰らったまま、れいさんが土産物をつくってくれた−−何が入っているのやら、ぱんぱんに膨らんでいるふろしき包み−−のでそれをいただくと、
「ではそろそろおいとまします」
 と、早々に席を立ってしまった。
「またいらっしゃいね」
 玄関先で見送ってくれたのはれいさんのみで、僕はその微笑みに頭を下げながら、そのお寺を後にした。


 帰り道、もしやまたどこかに迷い込みやしないかなと僕は危惧しないこともなかったが、その日は何事もなく帰路についた。
 家について土産物をあけると、艶やかに張った紫色の、見事な茄子と、みずみずしい胡瓜だった。
 ただおかしなことに、寺を辞するときはふろしきがぱんぱんに張っていたのに、家に帰ったときにはわずかに隙間が出来ていた。


        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


「仰るとおりにしましたけど、あれで大丈夫でしたの?」
 玄関先から戻ってくると、れいは座敷にまだ座っている夫に声をかけた。夫は目を瞑って瞑想に入ってでもいるようであったが、その言葉に頷いた。
「紀代香さまには申し訳ないが、あれは引き剥がしたり縁を切ったりできるてあいのものではないからな。だが、生半なものに魅入られるよりはまだマシと言えるのかもしれん………、今日送った土産を向こうがどう受け取るかにもよるがな」
「土産って……お茄子や胡瓜がですか?」
 小首を傾げる妻に、牟田は苦笑した。
「それは四辻に渡した土産だ」
「では、あなたに言われて人札を巻いたお茄子と胡瓜は違うんですね?」
「ああ。今頃あちらの魔性に届いている頃だろうよ。あれは、音哉くんの形代だ」
「まあ」
 れいは口元に指先をあてると、
「お人の悪い。もっと見目の良い細工にすればよいものを。音哉くんは、もっと様子のいい若い方ですよ」
 と、つぶやいた。
 牟田は今度はむっとした顔をすると、そんな妻に言った。
「俺はそういう細工が苦手なんだ。したくて不細工にしたわけじゃない」


         −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


「なんだ、こんなもの」
 金魚は、下駄の歯を使って、紙で作られた不細工な人札を踏み付けた。
 下駄の裏で紙がぐちゃぐちゃになる。
「ぶっさいくなもん寄越しゃアがって。これが遠夜かよっ。笑わせんじゃねえ」
 金魚は不機嫌な顔でぐちゃぐちゃと踏みつぶした人札から足をあげると、火打ちを持って来てそれを燃やした。
「私は遠夜をとり殺そうなんて思っちゃいない。それをよりにもよって、あんなぶっさいくな異形を形代にして……ろくな術者じゃないね。どうせ形代送るならもっと本物に似せやがれってんだ」
「家刀自よう」
 小さな呼び声がして、金魚が振り向くと、お社のあうんの狐、ヨウとハヤがおそるおそる扉越しにこちらを見ていた。
 機嫌が悪くなった金魚は、愛想のない顔で見下ろすと言った。
「さっさと帰らないと、朱雀さんが鬼に変化しても知らないよ」
 吐き捨てて、さっさと奥に入ってしまった。
 ヨウとハヤは困ったように顔を見合わせたが、やがて示し合わせたように二匹揃って、転げるように玄関先から外の路地へ飛び出して行った。