七:東風(こち)の使い
 夏の終わりの雷が、ひどく鳴る夜だった。
 ここしばらく雨が続いている。夏を迎える雨ではなく、夏の終わりの雨だ。
 この雨が過ぎると秋が来て、この年も終わりに近づいていく。
 僕は雷の音に目を覚まし、雨戸をわずかに開けると外を見た。
 夜空に美しい稲光が閃く。
 この世のものではなさそうな風景に目を奪われた。

 このところ、金魚に会えない。
 先日僕の家に来た、牟田さんに会ってからだ。
 母の心痛は減ったが、僕は正直なところ、金魚に会えないのが寂しかった。住む世界が元来違うのだから、これがまともな状態であるのはよくわかっている。
 それに、あちらの世界のことをよく知っているわけでもない。
 金魚自身にも、そう何度も会っているわけでもないし、本当のところ、金魚がなにものなのかということも、僕には皆目わからなかった。
 牟田さんはそういう言い方をしなかったけれども、母や牟田さんが思っているであろうことは、僕にもわかる。
 こういうのを、『魔性に魅入られた』というのだろう。
 しかしそれを言うならば、おそらく僕が神隠しにあったあのときから、向こうの世界には魅入られていたのではないのか?
 何故それが、こちらへ戻ってこれたのだろう?
 そして、何故、再びあちらの世界へ誘われ、そして金魚に出会ったのだろうか。
 僕にはわからないことが多い。
 母の心痛も、つまりは僕の所在が明らかならば良いのだろうと思う。いきなり正体をなくしたり、いきなり姿を消したりすることがなく、いつどこで何をするかをちゃんと伝えておけて、きちんと約束通り戻ってくるとわかれば。
 母もそう心配することはないのではないか?
 けれども、むこうの世界へ行くのすらいつも突発的で、僕自身にどうにかできるとは到底思えない。
「……………………」
 このままこちらの世界で、まっとうに暮らすのが、家族に余計な心配をかけない一番の方法だろう。あちらの世界へ行ったままもう戻らないという道もあるけれど………。
 僕はやはり母が、子供のころの神隠しのとき以上に悲しむだろうと思うと、その道を選ぶのを躊躇してしまう。それに、あちらの世界の理で、そんなことが許されるのかどうかもわからない。
 金魚に会って、話ができたらいいのに………。

 ピカッ!!

 一際鮮やかな稲妻が、夜空を横切った。
 なんて綺麗なんだろう……僕はうっとりとそれに見とれた。
 雷鳴と稲妻は、夜空を引き裂きながら徐々にこちらに近づいてくるようにも思えた。
 大きな音を立てて、放電しながら黒い雷雲が唸っている。
「………………」

 どうやら本当に近づいて来ている。
 僕はようやく事の異常さに気づき始めた。
 雷雲は、他の雲とは明らかに違う動きをしながら、放電を繰り返し、僕の家の庭に近づいて来ているのだ。
 美しい青い稲妻が、雲から光の触手を閃かせている。
 やがて雷雲は、本当に僕の家の……僕が雨戸を開けている庭の真上にやってきた。
 雷が落ちるようなものと言えば、庭に植えてある松の木くらいだろうか。他に高いものはない。
 そう思って、雷雲を見守っていると………


 バリバリバリバリと、耳が破れるような音が鳴り響いた。
 辺りが昼間のように明るくなる。
 ただし、お天道様の光が青いならば。



 雷雲から見事な稲妻の青い柱が、松の木めがけて落雷したのだ。
 僕は雨戸を閉めることも忘れて、呆然とその美しい景色に見とれていた。
 やがて、稲妻の触手が引いた後、松の根元に青く放電する人影をみた。
 それはうずくまっていたが、やがて立ち上がる。
 人の形をしている……いや、人だ。
「……………………」



 金魚の使いだ。
 僕はすぐにそう悟った。
 他に考えられなかったからだ。
 青白い顔を自ら放電する光に照らしながら、その『人』はこちらを見た。
 青く逆立った長い髪、白い光沢のある振袖に、青い模様が光って見える。稲妻の模様だが、その模様から凄まじく放電している。
 吊り上がった瞳は自らの放電を照り返すほどの異様な金属質な色をしていた。
 顔形だけを見れば大層整った姿ではあるのだが、その色や様子はあまりに異様だった。
 だがうつくしい。
 稲妻の精だなと、根拠もなく思ったが、その彼か彼女(性別はこれだけではわかりにくかった。女性の着る振袖を着ているが、あまりに姿が異形なので)は、ただだらりと下げた太い帯に、そこだけ鮮やかに緋色の金魚を泳がせていた。
「お前が『遠夜』か!」
 雷鳴のような大きな声だったが、その声音は懐かしい響きがした。
 なぜなら金魚の声音に似ているのだ。
 どうやら女性らしい。
「そうだ……」
 僕がそう答えると、彼女は懐から白い手紙……古風に和紙で包んである……を取り出した。
「金魚ねえさまからお前に渡すよう言われて来たが、そうか、お前が『遠夜』か!」
 彼女は値踏みするように僕を睨んだ。『ねえさま』と呼んでいるところをみると、金魚の妹か、あるいは妹分でもあろう。
 吊り上がって恐ろしい金属質の目で睨まれる。
「ふん。家刀自さまともあろう方が、人間の男なぞに………」
 忌々しげにそうつぶやくと、彼女は手紙を稲妻の触手に乗せてこちらへ寄越した。
 青い美しい光が、僕の膝の上に手紙を乗せて去った。
「貴女は?」
 僕が尋ねると彼女は青い唇をゆがめてこちらを見たが、相変わらず大きな声で答えた。
「ねえさまには青鱗(せいりん)と呼ばれている! 本来の名をこちらで教えるわけにはいかぬ!」
 僕は彼女の帯の緋色の魚に目を奪われていて、続けて言った。
「その帯の模様は、金魚ですね。貴女の姉上ですか。見事な図柄ですが」
 そのときだけ、青鱗は少し、誇らしげに笑みを浮かべた。
 驚いた事に、そうすると顔だちが金魚にたいそうよく似ているのがわかる。唇の色を赤くして、肌の血色をもっと良くして、瞳が硝子のように澄んでいれば、きっと瓜二つなのではないだろうか?
「そうだ」
 青鱗は頷くと、くるりと背を向けた。
 頭上の雷雲の放電が激しくなる。
「手紙は確かに渡したからな!」
 背中越しに青鱗は言い放ち、その後雷雲から放電する稲妻がまるで光の網のように彼女を包み込んだ。みるみる彼女の身体は光に包まれて、そのまま雷雲におさまる。
 僕の家の庭の真上にあった雷雲は、来た時のように、ぐんぐんとそのまま遠ざかって行った。
 一体どこへ向かっているのかわからないが、この夜空のどこかに、あちらの世界へ戻れる道があるらしい。
 僕は呆然とそれを見送った。



 気がつくと、雨の降り込む廊下の雨戸を開けたまま、ぼんやりと座っている僕1人が取り残されたように、いた。
 雨に濡れた寝巻きの膝に、金魚からの手紙が乗っている。
 手で持ち上げると、懐かしい金魚の香りが……あの、水辺の花のような清清しい、瑞々しい甘い香りが……鼻孔をくすぐった。
 ところが、包んでいる和紙をはずすと、中に入っていた手紙がすうっと、消えてしまった。
 僕の手の上で、まるで手の平に溶け込むように。
「…………………」
 その後は何事もない。
 手許に残ったのは、金魚の移り香のする、手紙を包んでいた何の変哲もなくなった和紙だけだ。



 一体、金魚は僕に何を伝えようとしたのだろうか?
 手紙は手の平から身体に溶け込んでしまった。
 僕は仕方なく和紙を拾い上げると、元のように畳んで、懐に仕舞った。
 金魚の移り香が懐からほのかに立ち上る。
 雨はだいぶ弱まってきたようだ。
 雨戸を閉めると、僕はもう一度眠るために部屋に戻った。


 金魚の『手紙』の意味を知るのは、夜が明けてからだった。