八:形代・弐

 雷鳴の夜が明けた。
 僕はいつもよりもやや、遅く目を覚ますと、障子越しの明るい光を感じて庭の方を向いた。
 もう誰かが雨戸を明けてくれたらしい。
 寝過ごしたかなと思って、起き上がって障子を開ける。
 昨夜の落雷で、庭の松の木はさぞひどいことになっているのではないかと……そう思ったのだ。

「…………………」

 そこは、見なれない庭だった。
 どう見なれないといって、とりあえず、僕の部屋の前の庭でないことは確かだ。
 あまり広くはないが、手入れの行き届いた、綺麗な庭ではある。
 そこに、曼珠沙華が、赤い色が目に染みるように咲き狂っている。他に庭木らしいものは見当たらず、ただそこには赤い、茎と花だけの曼珠沙華がたくさん、鮮やかに咲いているのみだ。
 僕はただ呆然と、ぬれ縁に足をついてそれを見つめた。
 曼珠沙華の庭の背後は白い土壁に瓦の小さな屋根……。それがずっと続いているようだ。

 ここは、どこだろう?

 今まで、道を歩いていたり、行動している時に突然違う世界へ入り込むことはあっても、目が覚めたらそこが違っていたというのは本当に初めてで。
 僕はただ途方に暮れていた。
 金魚のいる世界だろうか?
 それならば彼女がそのうち現われるかもしれない……。
 混乱した頭を鎮めてそれだけを考えると、僕は障子を開けたまま、布団を畳み始めた。布団は変哲のない布団ではある。ただ、日の光にたくさんあてたのだろう、とてもふっくりとして暖かい、気持ちのよい布団だった。
 ふと、自分が着ている寝巻きを見る。
 家で着ているのとは違う浴衣だ。
 布は木綿のようだったが、淡い色の趣味のいい染めのもので、寝巻きに使うのが勿体無いような代物。
 僕はふと知り合いの書生さん−−入江さん−−に聞いた話を思い出した。
 
『僕の友達が、その夜したたか飲んで、気がついたら朝で、見た事もないような場所に寝ていたんだそうだよ。しかも隣に知らない女が寝ていたんだと』
『裸でですか』
 室生さんが笑いながら付け加えるのに、入江さんはうなずく。
『そうそう、そうだったらしくて仰天したらしい。何せ何も覚えていなかったようだからね』
『それは、本当にお知り合いの話ですか? 入江さんの体験談ではないのですか?』
 苦笑する室生さんに、入江さんも苦笑しながら返していた。
『馬鹿なことを。僕が一晩でもこの下宿屋を空けた事があるかい? 君』

 なんだかそんな状況だなと思い、僕も苦笑した。
 隣に見知らぬ女が寝ているわけではないけれど。
 布団を畳んで、部屋の隅に片付けて、僕は座ったままため息をついた。
 金魚はまだ現れない……?


「いやー! 私これ嫌いだから食べたくないの」

 遠くからそんな声が聞こえた。 
 どこかで聞いたような……

「なら食べなくてもいいよ。アヲにはお菜はいらないね」
「やだあ! ねえさまのいじわる!!」
「いじわるじゃないよ。遠夜の好物なんだって聞いたから作ったのさ」
「………………」
「どうかした? アヲ?」
「ねえさま、本気? 本気の本気?」
 その台詞にどう答えたのか、はははと楽しそうな笑い声が響いた。

 もう間違いない、『ねえさま』と呼ばれている方は、金魚だ。

 それにしても、金魚には妹分がたくさんいるらしい。昨夜のあの稲妻の精といい、今話をしている女の子といい。

「亀にも困ったものだね。お前を甘やかしてばっかり」
「甘やかしてるんじゃないよ。どうでもいいんじゃない? 玄武は細かい事気にしないの。これ嫌いって言ったら代わりに食べてくれるよ?」
 会話が近づいてくるところをみると、金魚がこの部屋に向かっているのだろう。
「あたしと玄武が仲良くするのはいいことなんでしょ? 鳥と虎も仲良しじゃない」
「鳥とか虎とか言うんじゃないよ」
「ねえさまだって、玄武のこと『亀』って言ったー」
「亀だろ」
「違うもんーっ亀じゃないもんーっ」

 かわいらしく諍う声が間近になったと思うと、襖の向こうで、声がした。
「遠夜、起きた?」
 金魚だ。
「ああ、なんだかお邪魔していたみたいだね。金魚……」
 するりと襖が開く。
 青く澄んで跳ねた髪を深い黄色の絹紐で結わえて、硝子玉のように透明な瞳が微笑む。今日の彼女は美しく染まった紅葉の一枚一枚までそこにあるかのような、細かい素晴らしい模様の振袖を、黄金色の帯で結んでいる。金色ではない、秋の黄金色だ。
 金魚が、そこにいた。
 僕は本当に久しぶりに見たのだけど、
 何度も見た彼女でも、やはり。
 金魚を目にすることは、ひとつの感動だといつも思う。
 それは彼女が人間ではないモノだからなのか、それとも僕の中にある特別な感情のせいなのは。たぶん両方なのだろう。
 彼女は僕の知る人間の女性の誰とも違う。
 それは額面通りの意味でもあるし、僕が心惹かれる女性(ひと)だからという意味もあるからだ。
 金魚は嬉しそうに、輝くような笑みを見せてくれた。
「朝餉を持って来たんだよ。一緒に食べよう。妹分も一緒だけどいい?」
 金魚の後ろから、ひょこ、と頭を出した女の子を見て、僕は驚いた。
 彼女は金魚に瓜二つだったからだ。
 ただ彼女の髪の方が黒髪に近く、瞳の色も金魚よりも濃い色であり、結んでいる絹紐と振袖の色と模様が違う……それだけで。
「……妹分って、本当の妹さん?」
 金魚は微笑んだ。
「まあどっちでもいいけれど。遠夜は二度目だろう? この間この子に使いを頼んだから」
「え………っ」

 あの、恐ろしげで美しかった、稲妻の精が!?

「御挨拶をするんだよ。アヲ……いやさ、青鱗(せいりん)」
 金魚の後ろにいた彼女は、顔を出すとさっと居住まいをただして、言った。
「私の名は、青竜だ」
 口調は昨夜の彼女だったが、声音はずいぶん印象が違って聞こえた。いや、声音じたいは違わない。ただ外見の落差が激しくて印象が変わって聞こえるのだ。
 ではさきほどかわいらしい諍いをしていたのは、……彼女だったのか。
 僕の世界とこちらの世界で、姿が変わるのには、何かわけがあるのかな。
 居住まいを正した後だが、青竜は付け合わせの菜が気に食わないらしく(それは小松菜の煮浸しだと思われる……僕の世界と食べ物が同じであるならば)、箸で突きまわしては金魚を横目で見ていて、まだ幼い娘のようにも見えた。
「……嫌いなら、僕が貰おうか?」
 青竜はぱっと顔をあげると「ほんとう!?」と言った。それからはっとしたように、僕の顔をまじまじと見た。実際金魚の用意してくれた食事は素晴らしく美味しいものばかりで、好物の小松菜の煮浸しに似たそれも、とても美味しかった。僕の世界では口に出来ないような不思議な美味だ。
「………仕方ないね」
 金魚は見のがしてくれるようだ。小皿に彼女の皿から菜を受け取ったときも、青竜はまじまじと僕を見ていた。
「食事しているときだけれど、遠夜に教えておくことがあるのだよ」
 嫌いなものが器から消えてせいせいしたのか、青竜は嬉しそうに食事をしている。ごまを散らした菜飯に、豆腐と茸の味噌汁、香の物、味をつけて炙った魚の切り身。菜飯をかき込んでいるところをみると、青物が嫌いなわけではないらしい。
「これからは、遠夜のお母さまが御心配なさらなくて済むように、私が手配しておいたから、遠夜も安心していつでも遊びにおいで」
 青竜の食べっぷりを眺めていた僕は、驚いて金魚を見つめた。
「でも、それはどうやって?」
「簡単だよ」
 金魚は微笑む。
「この部屋で今夜、遠夜が布団を敷いて眠る……すると、次に目がさめるのは、俗世ということ」
「それは……僕がこちらへ来ている間は、あちらの世界はずっと夜で、実際の僕は眠っているということかい?」
「ちょっと違うけれどもね。まあ……当たらずとも遠からず。遠夜が私に会いたくなったら、俗世で寝床に入る時に、心の中でこちらへ来たいと言ってくれるだけでいい。そうすれば目が覚めた時にはこの部屋にいるだろう。その間……俗世には遠夜の身替わりがいるという寸法さ」
「僕の身替わり…」
 大丈夫だろうか? と顔に書いていたのかもしれない。金魚はあからさまに苦笑をした。
「心配ならいらないよ。それに、身替わりがやったことは遠夜が眠って俗世へ戻る間にちゃんと遠夜に渡してあげるから。面喰らうこともないだろう。……まあここでこうしていても始まらない。俗世で目が覚めた時に、自分の目で確かめてみるといい。それから、俗世とこの世界では時間の流れ方が違う……。こちらでゆっくりしていても、あちらでは1日しか経っていないから心配しなくても大丈夫だよ」
「…………そうなんだ……」
 説明されてもどういうことなのかよく、わからなかったし。それに……

 僕の身替わりというのはどういうモノなんだろうか?

 僕は青竜から貰った小松菜を食べながら、まだ釈然としなかった。



 俗世に戻るときは、同じように布団に入って「戻りたい」と心の中で言えばいいという。
 僕はとりあえず1日を金魚の元で過ごすと、この部屋に戻ってふかふかする布団に入った。
 心の中で「戻りたい」と、つぶやく。
 母の顔が過った。
 そういえば、こちらへ来ていても、なぜか母のことを口にすると元の世界に戻れたっけ。
 母が、僕の世界の象徴なのかもしれない。
 そんなことを考えているうちに、あたたかく気持ちの良い布団にくるまれて僕はあっという間に眠りに落ちた。




 朝、いつもと同じ時間に目が覚めたようだ。
 まだ雨戸が閉まったままで暗い部屋の中に身を起こすと、見なれた自分の部屋なのに気づく。寝巻きも布団も馴染みのあるものだ……。
 そして、不思議なことに、僕には金魚のもとで過ごした記憶と、何故か、こちらの世界で過ごした一日の記憶があった。
 もともと日々、複雑なことをして暮らしているわけではないから、改めておのれの一日を振り返るとその単純さに苦笑してしまう。
 僕はいつもの時間に目を覚まし、雨戸を開けて布団をあげる。そのあと朝餉をいただいて、部屋と前の庭の掃除を済ませたあと、借りていた本に目を通し、午後は図書館へ本を返しに行った。図書館でしばらく過ごしたあと、家に戻り、納戸の片づけをしている女中を手伝い、夕餉をいただいて、お湯をいただき、部屋に戻って本に目を通した後、布団を敷いて眠った……。
 朝、朝餉に顔を出しても、家族の誰ひとりとして不審に思う者はいないようだ。
 母でさえ、何の疑いも持っていないらしい。僕の顔を見ると、
「音哉、今日も図書館に行くの? それならついでに母さまの知り合いのお宅に、お届け物を持って行ってちょうだい」
 と言う。
「わかりました」
 僕が答えて、生真面目な弟が、
「兄さま、気をつけてくださいね」
 と言った。母は微笑んで、
「でもこの頃は静かだから」
 と、加える。
 …………なるほど。
 金魚のやり方ならば、家族に心配をかけずに済むようだ。確かに。


 それにしても、一体誰がそんなにうまくやっているのだろう? 
 僕の身替わりとは………。