九:

 その日。
 四辻音哉は図書館へ向かう道すがら、『遠夜の知り合い』に出会った。
 相手は親しげに声をかけてきたのだが、音哉が振り向くとその笑みを強ばらせた。
「音……哉く……」
 口籠る相手に、音哉は微笑みを浮かべる。
「ああ、室生さん、こんにちは」
 笑みを浮かべる音哉は、室生の知るそれとまるで瓜二つであったが、室生にはどうしても解せぬ違和感があった。

 目が笑っていない……!

 室生の知る音哉は育ちの良い、温和な青年だ。
 こんな含みのある人間では−−−いや、含み等という可愛げのあるものだろうか?
 室生は言葉を失って立ち尽くした。
「どうかしましたか? 室生さん」
 音哉は不思議そうに尋ねる。室生は首を横に降ると、まともに口もきかずに背中を向け、走り去った。
 それを見送る音哉は、その背中が見えなくなったころに、小さく。
 それはそれは本当に、小さくだが。

 舌打ちを、した。

 厄介な。と、音哉−−いやさ、音哉の形代…亀、こと玄武は思った。
 母親をはじめ家人のすべてを騙しおおせたと思ったのに、何故あんな他人に不審に思われるのだ? と。
 それ以上に。
『勤めを果たし終えないと、金魚ねえさまが厄介だぞ』と。
 傍若無人で知られる『亀』こと玄武でも、『金魚ねえさま』には一目置いている。
 それも、此たびは金魚ねえさまの肝煎りだ。いつも以上にうまくやらなくては、いろいろと面倒だ。
 玄武は細い顎に手をあてて、どうしたものかと思案した。
「…とはいえ仕方あるまいよ。そういう巡り合わせというものだ」
 まずは人間はさておいて、遠夜の日常をこなさなくては。

(あの人間の始末は、後に考えるとしよう)

 どう始末をつけるかしらないが、玄武はそう考えると『図書館』へ向かった。



 遠夜の日常をなぞらえて、図書館で時間を過ごした玄武は、ころ合いをみて外へ出た。遠夜ならば、本のひとつも借りて、その足で家に戻って家人の手伝いでもするであろうと。
 で、『四辻音哉』の顔をして、大通りを本を懐に入れて歩いていると、また何者かの気配を感じた。
 振り向くと、不動明王が立っていた。

 と、いうのは間違いで、玄武にとってはただの『人間』ではあったが、よほど修行を積んだか、生まれつきの才覚か、その人間には明王に匹敵するような法力を感じたのである。
 音哉は微笑んだ。
「牟田さん。ごぶさたをしています」
 牟田は隻眼を怒らせると、こちらを睨めつけた。
「四辻の長男の振りをすることはないぞ。貴様………妖異なるか」
 低く、唸ったその姿に、音哉、いや玄武は鼻で笑った。
「北神をして妖異とするか。愚か者」
「…………!?」
 牟田は驚いた顔をした。
「北神だと? 言うにことかいてよくもほざいたものだな。何の目的で四辻の長男を真似る」
 玄武は軽く肩を竦めた。
「わが義姉(あね)の望みにより。よかろう? 遠夜の母ごも心痛から開放されたようだぞ」
「……………」
 相変わらず地味な着物を身につけた牟田であったが、たもとの奥で数珠がちゃらりと鳴った。玄武は今度はあからさまに失笑を見せた。
「貴様、幼いな」
「幼いだと!?」
 ははははは、と、高らかに笑われて、牟田は言葉を失ったように顔を強ばらせた。
「馬鹿者め。祀られてあるから神とも呼ばれる。貴様が望むならば私は妖異となってもよいのだぞ?」
 遠夜の身替わりとして俗世へ出張ってきたのに、もう二人に見破られてしまった。
 玄武は面倒になり、手っ取り早く始末する事を考え付いたのだ。しかも相手はこちらを神とは認識しない輩。そのような輩に神らしく振る舞う謂れもあるまいて。
(先ほどの人間も……始末しておくか。面倒な)
 玄武は目を据えて牟田を見た。
 外見は遠夜と瓜二つながら、その底冷えするような眼差しはたしかに人間ではない。
「………く………」
 牟田は袂から長い数珠を取り出す。
 玄武がそれを見てせせら笑いを唇に浮かべる。
 牟田の命の炎が消えようとしたとき、間に割って入った者があった。



「よせよせ玄武。血迷うな。『金魚ねえさま』は御立腹だぞ」
 ふわりと……したした、と。
 まるで猫のようにしなやかな足音が、牟田の耳を撫でた。
 玄武が、二度目の舌打ちを、微かに鳴らした。
「…………虎か」
 白い虎がと見たのは目のまよいか。
 確かに傍らに、滑らかな白い体毛に黒い模様を纏わせた美しい獣が近寄ってきたと思ったものを。
 そうではなく、そこには妙に愛嬌のある若者が、ただ牟田と『四辻音哉』の間に立っていた。
 彼は跳ね上がった黒い前髪の奥から、牟田を見つめると微笑む。
 人なつこい、笑みであった。
「坊主、北の護神相手に喧嘩なんかよしな」
「北の護神だと!?」
「亀だよ、亀」
 はははと若者は笑う。
「なに、心配することはない。金魚ねえさまが、遠夜の母上に余計な心配をおかけしては申し訳ないと、遠夜不在の間、俗世で弟分に身替わりを頼んだまでのこと。なにせこの亀は、遠夜どのに姿は瓜二つだからな」
「こやつだけではないぞ」
 玄武はつまらなさそうに、つぶやいた。虎と呼ばれた若者は笑った。
「あの書生か。あれも許してやるがいい。花街に身を沈めた女郎が泣くからね」
「ふん……いつの間に。花街? 鯉か鮒か、あるいは鳥か」
 若者は目を見開く。
「鳥なんて、よしてくれよ。俺の大事な鳥を思い出すだろう!」
「お前の鳥も、人間の男をくわえこんでいるかもしれないぞ。家刀自どのがこのていたらくだ」
「亀には純愛はわからないものかねえ…」
 若者は苦笑して、牟田に向き直った。
「なあ坊主。わざわざ金魚ねえさまが、人間ごときの身替わりに北の守護神を遣わしたんだ。余計なけちはつけないのが長生きの秘けつ。なにあんたが心配するようなことはなにひとつ起こりはしないさ。それどころか、あんたの大事な『お嬢様』の心痛もなくなって、いいことだらけだろう? 家に帰って、女房でも可愛がってやるがいいさ」
 数珠を握りしめた牟田は、強ばった顔のまま、口を開いた。
「……御身のお名は」
 若者は、跳ね上がった前髪を払うと、腕を組んで笑った。
「こいつは亀。北方の守護神玄武。となれば虎の俺は、つまるところ白虎というわけさ。そう、西の守護神、白虎…」
「……つまらんな」
 玄武は白虎の口上を途中で遮ると、心底つまらなさそうに口をひらき、背を向けた。
「何がつまらん。俗世はおもしろいぞ」
 その後を追って、白虎は言った。玄武は『四辻音哉』の顔に戻るとつぶやく。
「朱雀に聞かせてやりたいものですね。お社様から離れられぬ巫女がそれを聞いてなんと言うやら」
「何を! 俺は朱雀への土産物を探しにきたのであって……」
 ふたりはなにやら言い争いながら大路を歩き去った。
 後に残された牟田はただ呆然と、数珠を握りしめてその場に立ちすくんでいた。

「……四辻の長男……やはり、大変なものに魅入られたものだ…」

 と、かろうじてそれだけを呟くと。
 彼は首を振って、家路についた。




「これだけかい?」
 金魚は玄武の『記録』を眺めながら呟いた。玄武はうなずく。
「ええ。『遠夜に渡す記憶は』これで充分だと思いまして」
「亀、お前余計な事をしてはいないだろうね」
 蒼い前髪の奥から見上げる硝子のような瞳に、玄武は苦笑する。
「してはおりません。ねえさまこそ、虎なぞをお目付に寄越すとはお人の悪い」
「お前は細かい事に気が回らないからね。虎に頼んでおいたのだ。全く……」
「家刀自さまの御乱心がそもそもの原因では?」
 涼しい顔でそう言い放つ、妹婿を金魚はむしろ笑みを持って見返した。
「亀、お前も北方の守護神のなにと言われてはいるが、まだまだのようだね」
「何がまだまだなのでございましょう?」
「そういうところがさ」
 と、答えて、金魚は婉然と微笑んだ。
 玄武の想い人青竜と同じ姿をしていながら、あまりに異なるその性質に、玄武は口を開く。
「人間ごときがよくもまあ、あなたに心惹かれるものでございます」



 さて、金魚の屋敷に滞在していた青竜は、金魚を捕まえてこう言った。
「ねえさま、あの人間、遠夜、どうしてあんなに玄武にそっくりなの!?」
 金魚は縁の下の鶏に、餌の粟粒を撒きながら、答えた。
「そっくりかい?」
「そっくりだよ! お顔がそっくりなの!!」
「ああ、似ているのは顔だけ、中身はあんな亀とは月とスッポンさ」
 そう答えて、金魚は楽しそうに笑った。
 青竜は、首を傾げる。
 愛らしい顔にちいさな不審を浮かべたまま。