番外1:傾城河原

 傾城河原。
 竜鱗川の東側の河原にある、花街。
 四角い街のど真ん中に大路を挟んで、西が風乃町、東が水之町。大門には青竜と白虎の見事な彫り物が飾られている。

 朝帰りの客を見送る妓の他は、廓中寝静まっている早朝。
 水之町沼屋の新造、桜音はそっと窓障子を開け、雨戸をずらした。
 きょろきょろと辺りを見渡して、長い振袖をひとふりする。ずるりと振袖がずり落ちそうになったときに、後ろからふいに声をかけられた。

「桜音(おうね)や、また出かけるのか?」
 桜音は驚いて振り向いた。
 紅波(くれは)花魁が、心配そうに小首を傾げてこちらを見ていた。
 滝のような絹糸の髪も瞳も緋の色だ。白い滑らかな面を彩る化粧にも負けない鮮やかな緋色。眉も、長い睫も。
 それが、前髪を頭の上で紐で結んでいる他は長いその髪を降ろして、淡い鱗の模様の着物に丹前をひっかけた姿で、襖の影からこちらを見守っている。
 緋色の柳眉が心配げに寄せられている。
「姐さん………ごめんなさい。昼見世までにはきちんと帰ってきますから」
 答える新造、桜音の髪は金糸。桜色の頬に、眉も睫も金糸で、瞳の色は沈んだ菫色だ。短いおかっぱに切りそろえた髪をひとふりすると、桜音の身体は綺麗に消えた。
「……………」
 紅波花魁はただ心配そうに見守るだけだ。
 ばさりと窓口に落ちた桜音の振袖は空だが、その身体はといえば。
 もう、天高く舞い上がっていた。
 憂いを含んだ楽の音のような、鳴き声を残して。



「おや、入江さんが菓子司の包みを抱えてお帰りとは、珍しいですね?」
 学校からそれぞれ下宿屋に帰宅した入江と、室生であった。室生は、自分より遅れて戻って来た入江にそう声をかける。
 甘党とは言いがたい入江が、菓子司の包みを抱えている図は相当に、珍しい。
 入江は涼しげな目もとを緩めた。
「これはね、おこしだよ。雷おこし。君にも分けてあげよう」
 紙袋に手をつっこむと、小さな四角い包みを取り出す。
「小売してくれなくてね。これだけ買わなくてはならなかったんだ。君、甘いものが好きだろう? 先日の…そうそう、四辻音哉くんが来た時にでも、お茶請けに出すといいよ」
「貴重な仕送りを何に使われたんです?」
 遠慮なく受け取ったあとに、室生は珍しげに入江を眺める。
 入江は大層な美青年で、たぶん彼が学校や図書館に通う道すがらに片恋しているお嬢さんの二人や三人はいるとは思うのだが、どうも、美青年らしからぬというか、ちょっと変わったところのある若者なのだ。
 第一に動物好きで動物好かれで、下宿屋の未亡人と令嬢が飼っている三毛猫の『ミケ』の『旦那さま』などと呼ばれるほどに、猫に好かれていて、それだけではなくて、庭に番犬代わりにいる柴犬の『太郎』にも大層懐かれている。入江が戻るとすかさず走ってやってきて、身体に乗り上げては顔を舐めまわす有り様だ。
「最近ね、僕の部屋の窓に小鳥がやってくるんだよ」
 嬉しそうに入江は言った。
「雀や鶺鴒がやってくるとおっしゃってましたね? 前から」
「ああ、そうではなくてね」
 相手によってはうっとりするような笑顔を惜し気もなく晒すと、入江は言った。
「どうもね、金糸雀がね」
「かなりあ?」
「そう。金色のカナリアが、紛れ込んでくるようになったんだ」
 だ、そうである。
 何となく話ながら入江の部屋を訪れた室生は、感心したように答えた。
「カナリアですか……。それはどこかで飼われているか、いたかしたものでしょうね?」
「そうなんだよ。きっとどこかのお金持ちの鳥篭にいたのだろうと思うけれど、ああやって飛んでくる所を見ると、逃げ出したのかどうか……。カナリアは鳴き声で人に飼われる小鳥だから、野生の鳥のように餌は取れないだろうと心配でね。来る時はいつもいろいろ揃えてあげるんだよ」
 入江の窓にある、木の桟の下あたりに小さな小皿があって、そこに粟や稗が少量、入っていた。
「でも、お菓子が一番好きなようでね。おこしだとか、饅頭だとか、そうそう、カステラなんかも」
 室生はもう一枚小皿を取り出すと、雷おこしを小さく砕いて入れた。
「贅沢に育てられていたのですね」
「そうだね」
 そっと、小皿を桟の上に置く。
 と、ほどなくして、妙なる声音が天空から届いた。
「あ、」
 室生がふっと顔をあげると、屋根の上から金色の小さな小鳥が舞い降りたのだ。
「やあ、来たね」
 嬉しそうに、麗しい笑顔を小鳥に向ける入江である。
「……………」
 カナリアは、慣れた様子で入江に近づくと、皿に足をかけてからぱっと入江の肩に乗り移った。
「へえ、慣れているのですね」
 室生も感心する。入江がその小鳥に手を差し伸べると、恐れ下もなく小鳥はその手の甲に乗り移った。
 指先で頭を撫でると、気持ちよさそうに目を閉じて頭を擦り付ける。
「可愛いだろう?」
「………入江さんの動物好きというか、動物に好かれる質というのは、ちょっと特殊かもしれませんね…」
 入江の手から皿に飛び移ったカナリアは、嬉しそうにおこしを啄んでいる。
 それを、室生はじっと見つめていた。
 カナリアはひとしきり、おこしや、粟や稗を啄んだあと、美しい声音でさえずって、また飛び去った。
「いつも同じ時間にくるのですか?」
 見送った室生の言葉に、入江は頷く。
「そうだね。いつもこの時間だよ。普段はどこにいるのだか知らないが…」




「金魚ねえさま、ねえさま」
 屋敷の自室の文机に向かっている金魚を、背後から呼ぶものがある。なんだい、と答えるとそれはそろりと近づいて、座った金魚の首の辺りにすりよった。
「……虎か」
 滑らかな毛の感触に金魚は微笑む。白虎は喉を鳴らしたあとに、金魚を覗き込んで言った。
「水之町に俗世の男が通っていてね」
 金魚は文机の上の帳簿を片付けると、ほうと頷いた。
「珍しいこともあるものだね? 花魁は? 瑠璃香(るりこう)か、柘枝(つみのえ)か、それとも笈川(おいかわ)か……」
「鮎でも山女でも鮠でもないよ」
「じゃあ桐口?」
「岩魚でもない。それに流水楼でも、谷川屋でも、清河楼でもない。沼屋さ」
「………沼屋。綾織かい」
「同じ鯉でも、錦鯉じゃないんだな。なんと、あの『お麩女郎』だよ」
 白虎は悪戯っぽく大きな口の端を上げて笑ってみせた。金魚は目を丸くすると、白い指を細い顎にあてた。
「緋鯉の紅波かい?」
「そうそう、紅波。小鳥を拾って自分の新造に育てた変わり者だ。水之町で鳥の新造を抱えているのは沼屋の紅波だけだよ」
『お麩女郎』とは、麩が好物の彼女のことを、朋輩が麩ばかり食べる女郎だと触れ回り、つけられたあだ名だ。
 金魚は立ち上がると、白虎を誘って部屋を出た。
「あの紅波が……。容姿だけなら沼屋の昼三どもより勝っているものを、どうにも覇気がないというか、おっとりしていて今一つぱっとしなかったが…。一体どうやって俗世の男に見初められたものだか。それにしてもアヲは何も言っていなかった。困ったものだ。水之町はあの子に任せてあるのに」
「それだけじゃない、ねえさま、実は新造の桜音は見世を抜け出して俗世へ遊びに行っているらしい」
 金魚は目を見開いて振り向いた。
「沼屋の名主の鯰が知ったら、ことだね」
 やれやれと金魚はため息をついた。
「家刀自様が俗世とつながりを持ったから、そのせいかもしれないね?」
 白虎は金魚の着物にすりよりながらそう言う。
「お前もそんな厭味を言うのかい」
 金魚はおかしそうに、白虎の背を撫でた。
「さてどうしたものか? アヲの尻を叩いて算段をつけたがいいか……、その男がこちらで俗世の名を名乗っていなければいいが。紅波は『作法』は知らないだろうしね。まさか、御職でもない花魁のところに俗世の男が行くとは思わなかった」
「紅波は昼二だからね。しかしねえさまがやった方が早いだろう。アヲだって、そんな古い作法は覚えちゃいないさ」
「古いって、たかだか200年前にやったことなんだがね。ま、確かにアヲは覚えちゃいないだろうね。……だが、教えてくれてありがとう、虎。お前の持ち分は風乃町なのに、いつもすまないね」
「なに、傾城河原の妓たちは皆、俺の妹分みたいなものだ」
 目を細めて喉を鳴らす白虎に、金魚は優しい眼差しを向けた。




 傾城河原に灯が点る。
 桜音は、お膳を捧げ持って客の前に据えた。
 客は、最近紅波の馴染みで、よく仕舞で買ってくれるようだ。おっとりしすぎて他の花魁と妍を競う事もまともにできない紅波に(それでも際立った容姿とそのおっとりが好きな客がいるおかげで、上から三番目の『昼二』ではあるけれども)、よくもまあこんな上客がついたものだと桜音も内心は、喜んでいる。
 だがどうもこの客、俗世の男のようなのだ。
 桜音はまだ幼いので、花街に俗世の男が通う前例を知らない。
 もちろん、世間知らずがそのままの紅波が知るよしもない。
 だから、家刀自様にも知らせずこのようなことをしていていいのだろうかと、密かに気を揉んでいるのも本当だ。気を揉んでいるのは桜音だけだろうが。
 男は、紅波がついだ酒の匂いをくんくんと嗅ぐと、にっこりと、笑った。
「不思議ですね。私、自分の世界では下戸で、酒はひとつも飲めません。でも、ここのお酒は飲めるんですよ」
 そう言って微笑む男を見て、紅波は袖でそっと顔を隠す。今日の仕掛は紅葉の模様だ。黒い流れに紅と金の紅葉が舞っていて、たいそう素晴らしい。髪は相変わらず額の上以外は降ろし髪だが、額の上に結んだ髪には、簪や櫛も控えめに差してある。どちらも黒地に金の塗りで上品でいながら華やかだ。
 盃を置くと、男は今度は桜音を見て、言った。
「桜音さん、今日、御会いしましたよね?」
 桜音は、あやうく銚子を取り落としそうになった。
 まさか、自分が毎日そっと俗世へ遊びに行って会っている男が、この男なのではと思ったのだ。だが、どんなに目をこらして良く見ても、紅波の客の顔はぼんやりと見えて、自分が知っている男とは違うような気がするのだ。自分が知っている男はもっと、目もとの涼やかな、背の高い、姿の良い人なのだから。
「わっちが御会いしたのは、ぬしさんではござんせん」
 そう応えてぷいと横を向いた。男は苦笑して、紅波を見た。
 紅波はただ、心配そうに、桜音の横顔を見守るだけだ。




「白虎、俗世の男が傾城河原に行ったら、相手をするのは御職なのだよ。そういう決まりだからね。だから、その男がそういう順序をとばして昼二の紅波のところへ通うのは、これはよほどの縁だろう。そういう事情ならば、お社様もわかってくださるさ」
 竜鱗川を望んで、渡し舟を待ちながら、金魚は傍らの白虎に言った。白虎はもう人間の姿になって、粋な着物をさらりと着流して立っている。
「そうだなあ。傾城河原で一番、『上の道』に近い御職ではなくて、まだまだ沈んでいなくてはならない紅波にねえ。紅波はおかげで道が上がるだろう。俗世の男の徳かもしれない。幸運といっていいのかな?」
 ふふ、と金魚は笑う。
「なに、紅波にとっての幸運は、上の道に上がることじゃなくて、その男に仕舞で買われることさ。これからは、好きな男と好きなだけ過ごす事ができるんだからね。それに、本来なら新造を持てないはずの昼二の紅波が、育ての子とはいえ新造を持っているのも不思議な話さ。まあ水之町で鳥の新造を持つなんて奇行なら、上の昼三たちも名主も女将も、苦笑するくらいで済むだろうしね。緋鯉の徳もあるのだろうよ」
「……その鳥新造の方はどうするんだい? ねえさま」
 渡し舟が近づいて来た。船頭が舵を取りながら深々と頭を下げた。
「紅波に拾われて育てられた小鳥だもの。桜音も並の運気じゃあるまいね」
 痛快そうに、金魚は笑った。
「花街は久しぶりだよ。その間も水はちゃんと流れているようで嬉しいね。水は流れていかなくてはならないものだ。そこがたとえ沼でもね」
 平服する船頭に会釈をして、金魚は白虎とともに、舟に乗り込んだ。
 家刀自が、傾城河原に足を踏み入れるのは200年ぶりのことだった。