番外2:鱗乃河原町

 ここ、どこだろう。

 四辻冬馬(よつじとうま)は、きょろきょろと辺りを見渡した。


 今日は、番頭に帳簿を見せてもらう約束だったのだが、朝餉の後に兄が出かけるのを見て、こっそり跡を付けてきたのだ。
 母も、それから父も何も言わないし、家中の誰もなんとも思っていないようだが。
 どうも、今朝の兄は普通じゃない。
 冬馬の兄は音哉といい、なんでも幼い頃に一度『神隠し』にあって、それ以来、身辺に怪異の暇がない。そんなことを真顔で人に話してもこの文明開化の世に、馬鹿にされそうだが、それが現実なのだから仕方がない。
 兄はときどき思わぬ場所にぼんやり立っていたり、近所に使いに出たまま、3日も家を空けていたかと思うと、いきなり蔵の中から出て来たり、とにかく、冬馬が知るだけでもかなりの怪しい出来事があった。 
 それでも、尋常の兄は優しい兄で、家の中ではいるのかいないのかわからないほどに大人しい。母は、兄を不憫がっていつもとても気を使っているが、父の方は、少しよそよそしいように冬馬には思えていた。
 父様は、兄様が少し気味悪いのではないだろうか?
 冬馬は子供心にそう感じ取っていた。だが、兄自身は、そのことを少しも気に病んでいないようだ。母が自分のことで心痛を深める事は、申し訳ないと思っているようだが……。
 兄様は、母様のことしか心配してないみたいだな。
 と、いうよりも、音哉という兄はやはり浮き世離れしていて、いつも魂が半分どこかへ行っているような、そんな印象が冬馬にはあるのだ。
 兄は3つのときに神隠しにあい、2年間戻ってこず、戻ったときには3つの姿のままだったという。冬馬が生まれたのは兄が神隠しにあった年で、兄とは3つ違いだ。兄は17で、冬馬は14であり、神隠しのことがあるから、現在兄の姿は15才くらいのはずだが、兄はこちらに戻って来てから普通に育って、今では年相応の外見になっている。
 なくしてしまった2年間をどこで取り戻したものやら。
 とにかく兄は不思議だった。
 冬馬は兄がいなくなってからすぐ生まれたので、両親は知り合いの祈祷師か何か(実は当時まだ15才の少年だった牟田である)に頼んで名前をつけてもらったという。「闘魔」「倒魔」という意味を含めた隠し名が、だから冬馬の名には込められている。魔に惹かれない、負けない強い子に育つようにと。
 さて、そんな経緯があったのだが、いつもどこか尋常でないとはいえ、今朝の兄にはことさらに違和感を感じたのだ。なぜなら、兄は尋常ではないが、纏っている雰囲気はいつも優し気で温和なものだったのに、今朝の兄にはさっぱりそれが感じられなかった。
 初めて、何か、得体の知れないものをそこに感じたのだ。
 それで、つい、気になって……
 兄が母に、「図書館へ行って参ります」と告げているのを聞いて、思わず跡をこっそりつけてしまった。
 そして、兄の跡をついて、そろそろと進んでいたはずなのに、気がつくと……


 見た事もない場所に、立っていたのだ。


 そこは川べりだった。
 川に沿って石畳を引いた道があり、様々に、色鮮やかな幟がはためいている。
 役者の絵のようなものが描かれた看板がたくさん、かかげられていて、凝った造りの建物が、冬馬を見下ろしていた。
(し、芝居……町、かな)
 冬馬はまだ、芝居を見に行ったことがない。もう少し大きくなったら連れていってやると言われて、14才になったのだ。
 入り口付近に人気はなくて、木戸銭を受け取る人間の姿もない。
 それにしても、自分の家のある町は芝居町から遠く離れた場所なのに、どうして辻を曲がっただけでこんな場所に出てしまったんだろう?
 冬馬は途方に暮れて、立ち尽くした。
 誰かに道を尋ねたいが、誰もいない。
 建物の中では芝居が始まっているのだろうか。
 冬馬はそろりと近づくと、建物の入り口にかかっている暖簾から中を覗こうとした。


「坊ちゃん、芝居が見たいのかい」


 突然、足下から声をかけられて驚いて辺りを見渡す。
 クケケケケ、という笑い声が足下から響いた。
 冬馬の足下……袴の裾近くに、黒くうずくまる何かがいた。
「わあっ」
 思わず大声を上げて飛び退ると、それは、黒い顔を持ち上げてこちらを見た。どこに目鼻があるのかも、どの口で笑ったのかもわからない。真っ黒な小さな生き物……。
「芝居が見たきゃ、木戸銭を払わにゃ、な。何持ってる? なんかいいもんがあるなら、金に換えてやるがね」
 黒い生き物はそうつぶやきながらずるずると近づいて来た。いや、2本の足でちまちまと歩いているのだが、足音がなにかこう『ずるずる』という感じなのだ。
「いや……僕は……道に迷って……」
「ははい、道にね? じゃあ道を教えてあげてもいいよ。どこへ行きたいんだい?」
「い、家に……帰りたいんだ……」
「家。家ねえ……」
 生き物は歩みを止めると、考え込むように首を横に傾げた。大きな丸い黒い頭ががっくりと横に倒れる。
「どこのなにという家かわからなきゃ、教えようがないねえ。坊ちゃんのお名前はなんていうんだい?」
 首をがっくりと元に戻すと、生き物はそう言った。
 冬馬はおのれの置かれている状況がわからなくて、頭の中がぐちゃぐちゃになっていた。だいたいどうして僕は、こんな化け物に道を尋ねているのだろう?
「ぼ、僕は僕のいた場所に戻りたいんだ……」
 クケケケケ。
 突然、黒い生き物の丸い頭がまっぷたつに裂けると、歯も舌もない真っ赤な口が現れてそう、笑った。冬馬は薄気味悪さに後ずさった。
「だから、戻してやるよ。俺ならそれができるんだから。さあ、坊ちゃんの名前を言いな」
「い………嫌だ。なんでお前みたいな化け物にっ!」
 冬馬は叫ぶと、背中を向けて走り出した。
 川沿いの道なのに風が乾いている。冷たい風が頬を斬るようにびゅうと横切って行く。

 たんっ

 何かにぶつかって、冬馬は後ろ向きにひっくり返った。
「………大丈夫かい?」
 聞き覚えのある顔が覗き込んでくる。冬馬は頭を押さえながら顔を上げた。
「あ…………」
 自分を覗き込んでいるのは、兄、音哉だ!
「兄様っ!!!」
 冬馬は思わず兄にしがみついた。
「兄様、僕、辻を曲がっただけなのにこんなところに迷いこんでしまって、どうしたら家に帰れますか?」
「なんだ、そんなことか。簡単だよ」
 冬馬を支えると、兄は顔を覗き込んでにっこりと笑った。
「お前の名前を言うんだ。それだけで十分さ」
「………………」
 名前……。
「さっき、あそこで会った化け物も同じ事を言いました…」
 兄はへえ、という顔をした。
「そうか。言わなくて良かったね。命を取られるところだったよ。さあ、兄さんなら平気だろう? 言ってご覧。そうすれば帰れるよ」
「…………………」
 違う。
 兄様じゃないっ!
 冬馬は離れると、後ずさった。
 よくわからないが、たぶん名前を名乗ると良くないのだと、瞬時に悟った冬馬は、固く口を引き結んだ。
「どうしたんだい。兄さんなら平気だろう? 家に帰りたいだろう?」
 兄は困惑顔で近づいてくる。だが、来た道を戻ればまたあの化け物が………
 心細さに冬馬の視界が歪む。
 心臓がきゅうっと掴まれたように、不安で足に力が入らない。
「さあ、名前を………」

 名前を言うんだ!!!

 耳が割れるような声で、冬馬はそう、兄の姿をした何者かに問いつめられた。身を竦めて、冬馬は目を閉じた。口を固く引き結ぶ。

 いやだ、怖い、助けて、誰か−−−!!

 どんという音がして。
 閉じた瞼の向こうが一瞬、赤くなった。
 冬馬は、おそるおそる瞼を上げた。
「!!!!」
 兄の身体に、長い刀が突き刺さっている。
 身体からにゅうと出ている柄の先に、丸い小さな翡翠が下がっていて、その先の綺麗な菫色の房紐がゆらゆら揺れている。
 兄の身体はゆらりと空気に溶けて、なくなってしまった。刀も、同時にふわりと消えた。

「随分と手荒をするものだ」
 後ろからふいに声をかけられた。冬馬は驚いて振り向く。
「ちょっと脅かされたくらいで、それはないんじゃないのか?」
 派手な羽織りを肩にかけた、着流しの若い男がこちらを見つめていた。毛先の跳ね上がった異様な蒼い髪を乾いた風に揺らし、白い顔から鋭い眼差しでこちらを見ている。
 役者のように整った顔だちをしているが、表情は無に近い。
「七曜あにさん、俺は見ていたよ。この餓鬼が、天枢をやったんだ!」
 男の足下でそう喚いているのは、先ほどの黒い化け物だ。
「生憎だったな黒房(くろぼう)。天枢はそんなことでやられはしないさ。おい、天枢」
 七曜と呼ばれた男がそう、呼ぶと、傍らにゆらゆらと人影が現れて、ひざまずいた。人影は明確ではなく、かげろうのように頼り無く、冬馬にはどんな風体なのかさっぱりわからなかった。
「七曜さま、おはずかしい」
「何、仕方あるまい。この人間には破魔の縁が結ばれているからな。魔を持って征服しようとすれば、さきほどの刀に斬られる」
 ふふ、と、七曜は面白そうに微笑むと、冬馬を見た。
「おいお前。こちら側で、親の付けた名を口走るんじゃないぞ。怪我をする者がたくさんいるだろうからな。まったく、お前のようなのも珍しいよ。こちら側の者を傷つける名を持つとはな」
「…………?」
 冬馬はわけがわからなくて、首を傾げた。
「…………」
 それを見て、七曜は少し考え込むような顔をしたあとに、言った。
「そうだな。私が名前を付けてやろうか。本来なら家刀自に任せるところだが、たまには悪くないかもしれん」
「あにさんが………」
 黒房と呼ばれた化け物が、何故か残念そうにつぶやく。
「お前は頭が悪いな黒房。金魚が名付けをしたって、お前にはどうにもできやしないぞ」
 七曜は苦笑して、黒房の頭を足で蹴飛ばした。黒房がころころと転がって行く。やがて、冬馬の方に視線を戻すと、彼は言った。
「……そうだな。お前の名は『夜刀(ヤト)』」
「夜刀?」
 冬馬が反復すると、七曜は頷いた。
「そうだ。これからこちら側へもしまた迷いこんだときに、誰かに名を聞かれたり問いつめられたら、刀は使わずその名を名乗れ。いいな」
「……………」
「お前の名は?」
 七曜が冷めた目で問う。
「や……夜刀」
 満足げに頷き、彼は背を向けた。
「それでいい。行くぞ黒房。お前、私に無断で俗世の魂を食おうとしたな?」
 足下の黒い生き物が、けたたましい悲鳴を上げて走り去った。
 それを追うでもなく、七曜はもう振り向きもせずに歩き去る。
 呆然とそれを見送っていた冬馬に、傍らから誰かが声をかけた。
「おい、夜刀の坊ちゃんよ」
 振り向くと、
 見なれない若い男が立っている。粋な着物をさらりと着流した、男前だ。
 跳ねた黒い前髪の奥から人懐っこい笑みを浮かべ、彼は言った。
「俺は天枢(てんすう)。まだ子供に見えるが、さっきの一撃はなかなかのもんだったぜ。またここに迷い込んで怖い思いをしたときは、『七剣ノ祝』組を呼びな。いつでも助けてやるよ」
「ひちけんのほふりぐみ……?」
「そうそう」
 愛嬌のある顔で笑み崩れると、彼は頷いた。
「『この夜刀の名は、七剣ノ祝組のお頭、七曜に名付けてもらったんだ』とな。そうすりゃ、河原町のごろつきなんざそれだけで逃げ出さあ」
「は……はあ………」
 河原町って、だから一体どこの?
「まあ、あんまりあんたみたいな俗世の坊ちゃんがこんな場所をうろうろするもんじゃねえ。この川沿いを南にまっすぐ行くと舟の渡し場があってな。そこを向かって左に歩くとお社があるから、そこに行きな。美人の巫女さんがいる。どうすりゃいいか、その人に聞くんだな」
「は、はい………どうも、ありがとうございました……」
 冬馬はぺこりと頭を下げた。それを見て、天枢はがははははと笑った。愛嬌のある顔に似つかわしくない豪快な笑いっぷりだ。
 天枢は冬馬が南に向かって川沿いに歩く間、立って見送っていた。
 冬馬には一から十までさっぱりわからないことだらけだった。




 ようやくその『河原町』が切れたらしく、舟の渡し場らしき場所に出た。
 渡し場には、男が一人立って舟を待っているようだ。
 冬馬がそれをぼんやり見ていると、男がいきなり振り向いた。
「!!」
 それは、先ほど別れたばかりの天枢だった。
「………お前、河原町から出て来たのか?」
 天枢は驚いた顔をして、そう言った。
 冬馬はやや後ずさりながら、
「あ、あの、……天枢さん、ですよね……?」
 と、尋ねる。すると、男の眉がいぶかし気に潜められて、そして、ちっ、と舌打ちを漏らした。
「天枢の野郎、また人の姿を盗んだな」
 と、呟いた。
「……………」
 困惑する冬馬を相手に、男はぐいと顔を近付けると、跳ね上がった前髪の奥から睨んで、言った。
「俺は白虎だ。いいか、白い虎と書いて白虎。それが俺の名前だ。間違えるんじゃないぞ。河原町の天枢は、お社様以外の誰にでも化ける罰当たりだからな。……あんながさつな奴と一緒にされたんじゃたまらない。どうせ化けるなら亀にでも化けろっていうんだ全く……」
 ぶつぶつ、と白虎はつぶやいた。
 わけがわからなかったので、冬馬はそろそろとその場を後にした。これ以上変なものに巻き込まれてはたまらない。
 その冬馬の背後から、白虎が怒鳴った。
「ああ、おい小僧、お前! お前人間だろう! どうやって河原町から出て来れたんだ、ええ!?」
 冬馬は目を瞑って走り去った。




 お社とか巫女とか言ってたから、神社があるに違いない!
 冬馬は目の前に赤い鳥居を見つけて参道を駆け上がった。とにかく早く家に帰りたい!!
 石段をそのままの勢いで駆け上がると、さほどせずに神社の入り口が見えた。今度は石造りの鳥居で、両脇に何かの像が据えてある。
 冬馬は境内に入ると、とにかくその巫女を探した。
 だが、境内は静かで、人気もない。
「すっ、すいません!!!」
 もはや半泣で、冬馬は叫んだ。
「どなたか、どなたかいらっしゃいませんか!!」
 境内はしんとしている。
 急に心細くなって、胸が塞がってくる。
 冬馬はその場に立ち尽くすと、蚊の泣くような声で言った。
「すいません………」
「うるせえなあ」
 突然、背後で声がした。
 人がいると思って振り向いた冬馬の目に、台座の上の石像が見る間に白い小動物と化したのが見えた。
「あ……………」
「朱雀は今出てこれねえよ。さっきまで男が来てたんだから当然じゃねえか。ちったあ都合ってもんを考えな」
 白い小動物はふっくりした尻尾を降ると、台座の上に座ってくしくしと足で頭を掻いた。
 まるっこくてふくふくして、首には白と赤の紐が注連縄のように結わえられてあって、赤い前掛けをして、大きな鈴までついている。
 それが、ちょっと伸びをすると、台座からぴょいと飛び下りて冬馬の足下にきた。
 くるんとした目で見上げると、尖った口を開いて喋った。
「お前、何泣いてんだよ。どうかしたのか? ああ?」
 冬馬はそのまましゃがむと、この、稲荷神社の石像の狐に似た小動物を抱え上げ、抱き締めて座り込んだ。
「う……………」
「お、おい、こら、どうしたっ、苦しいぞ! おいおい!」
 じたばたと動く小動物を抱いて、冬馬は情けない声で言ったのだ。
「うちに帰りたい………」
 ぐす、とべそをかいてそう言う冬馬に、小動物は大人しくなると、ぺろりと舌を出して冬馬の頬を舐めた。
「ヨウ〜、何、どうかしたのか〜」
 うしろから、もう一方の台座にいたのも降りてくる。こっちは色違いで青い色の飾りだ。
「迷子だな、こりゃ。おいハヤ、家刀自呼んで来いよ」
「ええ〜だって家刀自、さっき出かけて来たじゃないかあ。男と一緒にさ。今頃どっか別のとこ行ってるよ」
「そうかあ。それもそうだな」
 ヨウと呼ばれた小動物が、相方にそう応えたのを冬馬は聞いた。
 ヨウの毛並みは暖かくてふくふくしてて、抱き締めているとなんだか無性にほっとして、それで泣けてきて止まらなくなってしまった。社殿の階段に腰掛けるとヨウを抱いたまま、冬馬はそこで声をころして泣いた。傍らにハヤがちょんと座ってそれを見ている。



 そのうち、冬馬は眠り込んでしまった。
 頬に、ヨウの暖かい舌が涙を舐めてくれているのをずっと感じていたのだが。
 気づいたら…………


 縁側に座って、ぼんやりしていた。
「あ、えっと、ヨウ……」
 ヨウと呼ばれていた小動物の感触を感じて、視線を降ろすと、冬馬の膝の上には、飼い猫が乗って丸くなっていた。
「…………………」
 ゆ、夢!?
 だが、頬は涙で濡れているし、それに………
 袴や足下が土で汚れている。
「ぼ、僕は………」
 狼狽えて立ち上がったとき、屋敷の奥から呼ぶ声がした。



「冬馬坊ちゃまー? どちらにおいでですか? 御夕食ですよ……」

 腕にはまだ、あの暖かい白い小動物の(猫とは違う)ふかふかした、長い毛の感触が、残っていた。