君以外はいらないんだ。君しかいないんだ。君の、その魂でなければ駄目なんだ。
呆けたように、瀬戸口は壬生屋の口から紡がれる言葉を聞いた。
「…な、にを」
言っているんだ?
壬生屋はすっかり痩せ細っていた。血色の悪い肌に、何かが切れたような目をしている。
そしてその口から、なかば笑いながら紡がれる言葉に、瀬戸口は声もなくコンクリートの床に爪を立てた。
「…シオネ・アラダは殺しました」
―――本当は、抱きしめようと思っていた。本当は、きちんと、向き合おうと思っていた。
本当は、何かもを捨てても、優しい言葉を。
「どういうことだ!壬生屋、それは…ッ!それは!」
胸倉を掴んで揺さぶれば、壬生屋の黒い髪が広がった。すっかりその髪も艶を失っている。
青白い顔色の壬生屋は、されるがままにしている。抵抗する力がもうないのだと、成り行きを見守っていた速水が間に割って入るまで、瀬戸口は壬生屋を揺さぶって叫び続けていた。
「どういうことだ、どういうことなんだよ…ッ!なんでおまえの口からその名前が出るんだ…ッ!!」
遠坂にメモを貰って、瀬戸口と速水は揃って幻獣共生派のアジトにしているビルにたどり着いた。他のビルよりも手入れが悪く、見目のよくないそのビルのガードたちを軽くのした二人は、思ったよりも時間をかけず、壬生屋のいる牢へ辿り着いた。
「壬生屋!」
鉄格子を掴んで名を呼ぶ瀬戸口はどうやら壬生屋以外には見えていないようだった。
だから速水は奪った鍵を錠に差し込んで、素早く牢の扉を開けた。
駆け寄った瀬戸口の様子は、速水がはじめて見る、壬生屋に向けた必死の形相で、少し離れたところで二人を見守る。
「壬生屋、壬生屋!」
何度か軽く頬を叩けば、壬生屋が目を開けた。
ゆっくりと辺りの状況を確認している。たぶん、今自分がおかれている状態がわかっていないのだろう。
顔色が悪いことや、痩せ細っていることが気になったが、それでも無事を今は喜ぶべきだろう。そう思っていた速水は、壬生屋の様子がおかしいことにその時になって気づいた。
「…壬生屋?」
何も言わない壬生屋は、力なく瀬戸口から離れた。まともに動けないのか、床を這いずって。
それから、瀬戸口を薄暗い瞳で見つめて、ぽつりと呟いた。
「シオネだからですか?」
その言葉に、明らかに瀬戸口の顔色が変わった。
紫の瞳が見開かれる。
瀬戸口が何か言うより先に、壬生屋は笑った。
何がおかしいのか、しばらく笑い続けていたと思えば、次の瞬間には肩を震わせながら泣いていた。
「だから、助けにきてくれたのですか?私が、ただの壬生屋未央だったら、ここには」
壬生屋の青い瞳から流れる涙が、それがどういう意味かわからず速水は眉を顰めた。
彼女が何を言いたいのかもいまいちわからないまま、黙って二人を見つめる。
瀬戸口が助けに来たことを、信じられないからあんなことを言っているのだろうかと思った。
「ここには…来てくれましたか?」
その問いに、瀬戸口は答えない。酷く動揺しているらしい彼は、だからその時、彼女の望む答えを与えることが出来なかった。
瀬戸口がおかしいことも、壬生屋がおかしいことも、端から見ればそれはあからさまにわかることだ。けれど、二人にはそれすらもわからないようだった。
「私は。…私は、壬生屋未央です。あなたのずっと探している、シオネじゃない」
「…おまえが、なんでその名前を」
瀬戸口の硬い声が牢の中に響く。何かを拒絶する声だと速水は思った。
―――それはもしかしたら、現実というものなのかもしれない。
「私はシオネじゃない。私はあなたの探している人じゃない。私は…」
泣きながら、肩を震わせながら壬生屋は何度もそう呟いた。
壬生屋も、なにかを必死に否定している。
二人に何があるのか、速水にはわからないまま、ただ二人の中でネックになっているらしい、「シオネ」という言葉に眉を顰める。
それは人の名前なのだろうか。
何もかもが突然霧にまかれたような気分になりながら、速水は必死に瀬戸口を制した。
壬生屋から瀬戸口を引き剥がし、それから泣いたまま気を失っている壬生屋を抱き上げて、それから。
一つ大きなため息をついて、速水は病室を出た。
廊下には来須と遠坂がいて、なんだか妙な組み合わせだなと苦笑する。
「…壬生屋さんは」
「うーん、かなり弱ってるけど、命には別状ないみたい」
歯切れの悪い言葉に、遠坂は首を傾げた。
速水がこういう喋り方をするのは、実に珍しい。
「…どうか、したんですか」
「あーうーん。した、んだけど。ちょっとごめん、僕も今混乱しててよくわからないんだ」
病院の廊下は静まり返っている。来須は相変わらず何も言わないし、遠坂は眉を顰めたまま、壬生屋の眠る病室のドアをじっと見つめている。
「遠坂、ありがとう。メモ」
「…いえ、あなた方が無事でよかった」
遠坂の口調に、少しむず痒さを覚えて速水は口元を緩める。
「はは。ほら僕、運いいから」
本当に、自分がいてよかった、と今更ながらに思う。
ああいう時の自分の勘の良さに我ながら感心して、速水は来須の横に座った。
もしも自分がいなかったら、少なくとも瀬戸口はずっと気絶した壬生屋に叫び続けていたはずだ。
あそこまで体力を消耗しきっている壬生屋を、その事実にすら気づかないで。
「…壬生屋さんは、たぶん、毒を盛られた、と思います」
苦々しい遠坂の言葉に、速水は視線だけで彼を見た。
速水の横に座るでもなく、ただじっと病室のドアを見つめながら。
「かなり消耗しているのは、たぶん」
「そっか。…なんだか、嫌だね」
自分はきっと彼らに狙われることはないだろう。芝村という大きな盾がある以上、手を出したくても出せないはずだ。
そしてその捌け口に、壬生屋が選ばれたのだろう。
たしかに彼女の最近の活躍は目をみはるものがあった。
けれど、それを突然、監禁されて毒を盛られるほどのことを壬生屋がしただろうか。
「……けどさ、遠坂は大丈夫だよ」
「は?」
「遠坂は壬生屋さんのこと見捨てなかったから。だから大丈夫」
何がどういう理由で、と遠坂が困ったように、視線をさまよわせれば、来須がこちらを見ているようだった。
寡黙な彼がそうやって他人を見ることは珍しいので、遠坂はさらに緊張した様子で数歩あとずさる。
「ありがとう、遠坂。…やっぱりさ、誰かが死ぬのは嫌だから。遠坂もそう思ってくれてたのかなーって思ったら嬉しかったよ」
「…僕は」
遠坂は何か言おうとして口を閉じた。
何を言ってもきっと彼は笑いながらありがとうと言う気がして、そういうことに慣れていない遠坂はなんとなく恥ずかしいような嬉しいような気持ちになって、そのまま押し黙った。
「あとの問題は、本人たちだけど」
そもそもおかしいと思っていたのだ。壬生屋にだけは優しくない瀬戸口の言動はとても不安定で、矛盾だらけだった。
みんなで幸せになることは出来ないのかとぼやく傍らで、壬生屋にだけは酷く辛辣な言葉を投げかける。
好きなんだろう、と思っていた。不器用な表現の仕方なんだろうと。
だが、もしかしたら違うのかもしれない。壬生屋が口にしていた、「シオネ」という名前が気になる。
少なくとも自分は、聞き覚えがなかった。
あの二人の間に何があったのかとか。そういうことはわからない。
わからないから、だから速水は彼らになんと言っていいのかわからなかった。
瀬戸口は、はじめて会った頃からずっと、誰か違う人に恋をしている、と思っていた。だから、もしかしたら瀬戸口の昔の恋人あたりだろうか、と思う。
―――その人を、壬生屋が殺した、のだろうか。
(…よくわかんないや)
けれど、もしもその通りなのだとしたら、瀬戸口があんな風になる理由は、十分だろう。
速水はちらりと来須を見て肩を竦めた。来須は何も言わない。
結局自分たちは当事者ではないので、どうしようもない。
そんな風に言われた気分だった。
病室の中は静かだった。壬生屋はベッドの上で横たわっている。
時折苦しそうにする以外、異常はない。
瀬戸口はそれを、ただじっと見つめていた。
―――シオネを。
正直、彼女の口からその名前が出てくるとは予想もしていなかった。
ただ彼女の面影を宿した、全くの別人だと思っていた。だからこそ、彼女がまるで自分のことを知らないように見えて、それが腹立たしかった。
それでも、それを抜きにして自分は彼女を見捨てることは出来ないと思ったはずだ。
なのに、どうだろう。
この空洞のようなものは。
シオネを殺した、と言われて、何かが―――ひいていったような気がしたのだ。
会いたくてたまらなった。だからずっとこうやって人に執着して長く生きてきた。
「…どういうことだよ…なぁ」
眠っている壬生屋に、答えはないとわかっていながら問い掛ける。
壬生屋が、酷く弱っていてまともに動くこともままならなくなっているのはわかっていた。
わかっていたのにそれがどうでもよくなった。
それより、答えが欲しかった。
「…おまえが…」
シオネなのか、とは口に出来なかった。
もしそうなのだとして、だからどうする気だろう。
会いたかった人だ。会いたくてたまらなかった人だ。
今目の前にいる、彼女が。
―――シオネなのだとしたら。
(だったらどうして俺がわからなかった?)
勝手な言い分であることはわかっている。
けれど、それでも彼女が自分のことを覚えていなかったことが悔しくて悲しいのだ。
自分は、忘れられなくて、もう一度会いたくて、こうしてずっと生きてきたのに。
もしも壬生屋がシオネなら、もっと優しくした。
もっと、今度こそ失わないで済むように。
「…シオネ」
ぽつりと呟いた、その声に反応するように、壬生屋の瞼がぴくりと動いた。
驚いてじっと様子をうかがえば、少しずつその青い瞳が開かれる。
「………」
壬生屋は、こちらを見ても何も言わなかった。
憔悴しきった表情は、顔色の悪さをさらに顕著に表していた。
「…なぁ、壬生屋」
声がかたい。それは自分にもわかった。
今から聞こうとしていることが、酷く自分に重い。
「おまえは…シオネの」
「…私は、シオネじゃありません。私は壬生屋未央です。…似てるかもしれないけど、違います。違うんです。…私は」
瀬戸口の言葉を遮って、壬生屋は抑揚なく呟く。
何を否定したいのだろう、と瀬戸口は思う。
ただ、彼女のうわごとのような呟きは決して答えにはなっていなかったので、瀬戸口はもう一度、たずねようとした。
「…壬生屋」
「私は。私は壬生屋未央です!…あなたを、好きなのも、私です。シオネじゃない。シオネじゃないのに!私の中で彼女が言うんです。私の思いがあなたを引きずるって言うんです。私は自分の意思であなたを好きになったんじゃないって」
―――告白、だ。
妙に冷静な頭でそう考えた。
本当だったら多少なりとも嬉しいはずのその言葉は、壬生屋にも瀬戸口にも決してそれらしく受け止められることはなかった。
「…じゃあ、おまえが…おまえが、シオネなのか」
「違う!違います!私は…ッ」
泣いて必死に違うと言う彼女の手を、瀬戸口はそっととった。
泣いてほしくない、と思ったのだ。
「…泣くな」
優しくしよう、と思った瞬間。
「やめてくださいッ」
はっきりとした拒絶だった。
重ねた手を壬生屋は振り解く。
「あなたが優しくするのは、私がシオネだからですか」
違う、と言おうとして瀬戸口は言葉を詰まらせた。
「私は…私は違う。私は…ッ!私は壬生屋未央です。シオネじゃない。シオネじゃない…!」
記憶、というにはあまりにも鮮明で落ち着かない。その光景の中に、身体こそ違うが瀬戸口がいる。
鬼、と呼ぶしかない彼を、自分は違う名で呼んでいて、彼もとても嬉しそうだった。
けれどそれは自分の記憶ではない。壬生屋未央としての記憶の中に、そんなものは絶対にない。
だから瀬戸口が、シオネという遠い過去の自分に思いを寄せていて、いまだに忘れられないでいて、そしてそれを自分に重ねているのなら。
なんて、茶番だろう。
「私…のことを、好きになってください…ッ」
殺した、なんて嘘。
本当は、振り下ろすべき刀で、断ち切ったのは彼女が繋がれた牢。
そしてまるで巻き戻されたように見た、いつかの自分。
自分の中にいる自分ではない自分を、殺すことはできなかった。
けれど、それでわかってしまったのだ。
瀬戸口が自分にきつくあたる理由も、時々優しくなる理由も。
全部、シオネのせいだった。自分が何かしたのではなくて、彼女が。
彼女が彼と自分の中に残したもののせいだった。
好きだと思ったのも、全部その過去のせい。彼が自分にはわからない行動をとるのもその過去のせい。
完全に、無視された自分。
「無理なら…もう、いいですから。優しくしないでください。私は」
嫌だった。
自分で好きになった相手ではないのに、それなのに、どうしてもその感情が捨てられない。
手を、差し伸べられたら嬉しいと思ってしまう。
どうしようもなく、反応してしまう。
それが、とても嫌だった。
「…私は…私を、見てくれる人でなければ、嫌です」
瀬戸口では駄目だ。瀬戸口は自分の中に、シオネを見ている。
当然だ。外見も、この青い瞳も、この黒髪も、全て彼女の面影を残しているのだから。
だから、優しくするのはシオネのため。
シオネに似ているから、シオネの記憶があるから。
どうしても、どうにもならない。
彼が、想いにこたえてくれたとしても、それはシオネに繋がるだけだ。自分は、どうやっても無視されてしまう。
ベッドのシーツを無意識にきつくつかむ。
知りたくなかった。知らなければ、理由がわからなくても、平気だったのに。
悔しいくらいに利己的な自分に、嫌気がさす。自分を見てとそればかり考えていて、必死にシオネの存在を否定しようとする自分がいる。
そうしないと、何もかもに自信が持てないから。
自分が今まで、選んできたと思っていたこと全てに。人を、好きになったことにも。
「…壬生屋」
瀬戸口の、掠れた声。どんな顔をしているかは、わからなかった。
歯を食いしばって、シーツをきつく握って、そうしないと止まらない気がした。
自分で彼を好きになったと、胸を張って言えればいいのに。
シオネなんて関係ない。私は私で好きになったんだ、と。
それが言えない。全てがわかってしまった今、それはどうやっても口には出来ない言葉だ。
―――苦しい。
「…俺は」
無理なのだ。わかっている。
瀬戸口は、あの頃と何も変わっていないのだ。魂をそのままにして生きているのだから、壬生屋の 望む答えは確実に得られない。
好きなのは、愛しているのはシオネ。
どんなに長く生きても、彼の中にあるのはシオネを求める想いだけ。
だから、もしも瀬戸口が、優しい言葉をくれたとしても、それは。
それを信用できるわけがない。
結局遠い昔に死んだその人に、自分はかなわない。
「帰ってください…もう、いいですから…」
病室を出てきたところに待っていたのは、速水と遠坂だった。来須はどうやらいないらしい。
「壬生屋さん、どう?」
速水の伺うような言葉に、瀬戸口は何も言えなかった。
不自然な沈黙に、二人は困ったように顔を見合わせる。
「…瀬戸口?」
「……俺は、どうすればいいんだろうな」
咽喉が渇いている。壬生屋に何も言えなかった。気のきいた言葉一つ言えず、結局どうしてこんなことになってしまったのだろう。
「悪い、…ちょっと今は…」
言葉を紡ぎ出すのが困難だった。何を言えばいいのかわからない。
混乱している。
シオネを殺したという壬生屋。
そして、待っていた、ずっと会いたかった、その人。
「瀬戸口。…シオネ、ってさ。誰?」
「は、速水くん」
速水の単刀直入な言葉に、驚いたのは瀬戸口よりも遠坂だった。
慌てて肩を掴むが、速水の目は瀬戸口をじっと見ているだけだ。
「…その人は瀬戸口の好きな人?壬生屋さんがその人を殺した?」
「…さぁ。俺にももうわからんよ」
シオネ。シオネ・アラダ。
とても好きでずっと会いたくてたまらなかった人。
そのために生きてきた、そのために人としてずっと。
「…壬生屋か、シオネか、なんてのは…」
壬生屋は言う。
シオネと重ねているなら優しくしないで、と。
言い逃れのしようもなく、自分はたしかに壬生屋にシオネを重ねていた。
殺した、と言われた後の、あのがらんどうのような感覚。
何かがはじけて、何もなくなった。
壬生屋の安否よりもその言葉の意味を求めた自分は、たしかに、壬生屋よりもシオネに強い想いがあるのだろう。
「…瀬戸口」
優しくするはずだった。優しくして、もう絶対に、手を離すつもりはなかった。
なのに、今、この現状はどうだろう。
拒絶されても、絶対に離さないと決めたのに。
「…最悪だな」
シオネ。シオネ。シオネ。
壬生屋がその人だと、わかって、けれど彼女は、その人であると認めない。
どう言えばいい?どう言えば伝わる?
彼女の望む答えは、与えることは出来ないのに。
「…俺は最悪だ。いつもいつもいつも!誰も助けられないし苦しめるだけだ…!」
吐き捨てるようにそう言うと、瀬戸口は白い壁を殴った。
かたい音がして、それだけ。
瀬戸口は顔を上げない。
音の余韻の感じる沈黙に、遠坂は拳を強く握り締めた。
「…せ、瀬戸口君。その、僕はこれ、人に聞いただけですけど。でも、今のあなたには言いたい」
顔を上げないまま、だが瀬戸口は無言だ。
だから遠坂は、一呼吸おいて、そしてほとんど叫ぶように言った。
「明日はきっといい日ですよ!」
その言葉に、速水は一瞬脱力したようによろめいた。
そして瀬戸口は、ゆっくりと顔を上げる。色の明るい髪の間から、紫の瞳がのぞく。
「え、ええと。僕はこれを人に聞いて、とてもいい言葉だな、と思ったんです…よ。…きっと、明日はいい日で、あなたもいい答えを導き出せる」
答えない瀬戸口に、遠坂はだんだん声のトーンを落としていく。
言ったはいいが自信がなくなってきたようで、困ったように笑っている。
その笑顔ですら、答えない瀬戸口の前ではさらに効力を失って、最後には力なく「すいません」の言葉と共に消えた。
再び、不自然な沈黙が辺りを支配する。
「…だと、いいな」
どれほど経ったか。痛いほどの沈黙の中で、ぽつりと瀬戸口が呟いた。
そしてゆっくりと歩き出す。力のないその動きに、遠坂は速水を見た。
二人でそうやって瀬戸口の背中を見送っていると、速水がため息をついた。
「殴らないんだ?」
「…は?」
「瀬戸口に、殴られたんだよね、遠坂。だからさ、殴るかなって」
突然何を言い出すのだろう、と思って遠坂は目を白黒させた。
淡々とした言葉とその表情は、決して冗談を言っているようには見えない。
「…殴りませんよ」
「僕はちょっと殴りたいよ」
その言葉と共に、速水はぐ、と拳を握った。
瀬戸口の後ろ姿はもう見えない。が、速水はじっと前を見つめていた。
「あんまり、後ろ向きだからさ」
「…速水くん」
青い瞳が痛いほどどこかを睨んでいる。もう見えない瀬戸口の背中かもしれない。
いつもの彼らしくない、顔だった。
遠坂はただ困ったように速水を見つめ、それから速水と同じように瀬戸口の消えた方を見る。
太陽の沈みかけた空は酷く赤い。
胸騒ぎのする赤だった。
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