君以外はいらないんだ。君しかいないんだ。君の、その魂でなければ駄目なんだ。
たとえば彼が突然優しくなったこと。嬉しかった。いつもはまるで存在を拒否されているようで、酷く辛かった。いたたまれなくて、苦しくて、悲しくて、涙が出て、それが悔しさに拍車をかけた。
せめて、彼と渡り合えるだけの強さがあればよかった、かもしれない。
―――違う。
本当は、彼とわかりあえるだけの心の、弱さ、があれば。
夢の中で、彼女はいつもその青をたたえた瞳で自分を見た。うまく笑えない自分に、笑い方を教えるように、覚え込ませるようにして、笑っていた。
笑う彼女に、自分は救われていた。
だから、彼女が死ぬ瞬間は酷く鮮烈で、忘れたくても忘れられない。
いや、もしかしたら忘れてしまっているのかもしれない。あれはもう、どれほど昔のことだったか。そもそも現実だったのか、そんなことすら考える。
彼女のことは、「好き」だったと思う。あの感情が、今までの自分を強く動かしてきた。
けれど、それよりも強い何かが、今、自分の中で蠢いている。
出撃命令がくだって、学兵である彼らは走り出した。
ウォードレスを身にまとい、準備を整える。
「…瀬戸口…」
ふと速水が眉を顰めた。速水の声に、最近三番機のパイロットに異動した遠坂も同じように瀬戸口を見る。
「…最近、増えてるよ」
「…そうだったか?」
向けられた瀬戸口の瞳が、どろんとしていて、遠坂は一瞬言葉を失った。
パイロットが、恐怖をおさえるため、また機能をあげるために薬をうつのはさほど珍しいことではない。
それでも、その量には限度というものがある。瀬戸口はあからさまに日々量が増えていた。
「よくない」
短くそう言えば、瀬戸口はやはり生気のない瞳で速水を見て、笑った。
「…情緒不安定でね」
「……それは、わかってるけど」
瀬戸口がそうなったのは、あの日からだった。壬生屋に、何を言われたのか速水たちにはわからない。
けれど、彼女の言葉が瀬戸口に重くのしかかっているのはわかっていた。
ののみが心配していても、その声にすら耳を傾けられない。そんな彼は彼らしくなかった。
それから、ふらりとその場を立ち去る瀬戸口に、速水は困ったように遠坂を見た。
「…遠坂は平気?」
「…えぇ」
恐怖という感情ならばいつでも心の片隅を巣食っているけれど、遠坂は微笑んでみせた。
「…あれでさ、戦場ではしっかり動けるんだから、おかしいよね…」
タン、幻獣たちの前に立つ。瀬戸口の操る一番機は相変わらず刀のみで戦っていた。
クラスメイトの前であれだけ壬生屋の戦い方を馬鹿にした彼が、そのスタイルを変えようとしない。
ぎょろりと向けられる赤の瞳。懐かしさすら感じるその赤に、瀬戸口はぽつりと呟いた。
「…おまえたちは、いいな」
あの時。遠い過去、もう記憶すら磨り減ってしまっているあの時。
可哀相だ、などと思わなければよかった。
シオネが、鎖につながれていようと、瞳を潰されていようと、身体中に奇妙な模様が描かれていようと、何も思わないで、殺しておけばよかった。
そうすれば自分は、こんな風に理不尽な命をいつまでも引きずることはなかった。
こんな理不尽な想いに苦しむこともなかった。
瀬戸口は、幻獣からの攻撃が来るよりも早く刀を振りかざした。
「瀬戸口機、ゴルゴーン撃破!」
それから背後で、重く耳をつんざく爆破音が響いた。速水たちが操る三番機が、ミサイルを発射した音だった。
舞が壬生屋の病室へ見舞いに来るたびに、彼女は力なく微笑んだ。
そしてその瞳はいつも、いつかの放課後、彼女へのプレゼントとして選ばれたサボテンの植木に向けられていた。
固執している。
「…壬生屋」
名前を呼べばかろうじて反応はする。話をすれば遅くとも返事はある。
けれど、壬生屋は決して前のように、楽しそうに笑わない。本気で何かを語ることもない。
芝村が嫌いだと言っていた頃の彼女の面影は、もうどこにもなかった。
「…芝村さん」
「な、なんだ」
慌てて顔を上げれば、壬生屋はやはりどこか遠いところを見ているような瞳で、ゆっくりと呟く。
「…どうしたら、何も残さずに死ねるのでしょう…」
「…壬生屋?」
「毎日、考えているのですけれど…」
そう呟きながら、舞の方を見て、わずかに微笑む。
生気のない瞳。速水と同じ青の瞳は、掛け値なしに綺麗だと思っていた、その瞳がまるきり光をうつしていない。
「…壬生屋、おまえはなんのために戦っているのだ。生きるためではないのか!?」
「……もう、嫌なんです」
舞は思わず立ち上がった。その拍子に椅子が硬い音をたてて床に転がったが、それを直す気にはなれなかった。
何があったのかは、知らない。
捕まって、数日して速水が瀬戸口とともに助けに行って、無事に帰ってきて―――まともに口を聞かなかったのはショックのためだろうと思っていた。
「何が嫌だというのだ!は、速水が危険をおかしてまで助けた命だぞ!?」
「……あぁ、あの時、もっと強い毒があれば、よかったですね…」
「死んでいた方がいいというのか!?」
「だって…!だって、何もかもが私じゃないなんて私は嫌なんです!あの人は、私を見てるんじゃない…!」
荒げた声を跳ね返すように、壬生屋がここにきてはじめてはっきりと反応した。
その声が、酷く悲痛で舞は一瞬言葉を失う。
「…嫌…私は嫌…!自分が自分でないと思い知らされるのはもう嫌…!!」
そう叫びながら、その瞳から大粒の涙が溢れてくる。ベッドの上で、シーツをきつくつかんで、あとはもう、鳴咽をもらすばかりだった。
舞はどうすることも出来ず、呆然と壬生屋を見つめる。
長い黒髪。速水が綺麗だよねと言っていたその黒髪を振り乱して、壬生屋は泣いていた。
人の前で醜態をさらすな、泣くな、と父は言っていた。芝村たる者、人前で弱みを見せるなとも。
だから舞は、もうずっと人前で泣くようなことはしなかった。そしてこんな風に、泣かれたこともなかった。
弱い者は駄目だと言っていた父の言葉が、頭の中で何度も反芻される。
けれど、舞は壬生屋を、駄目だとは思えなかった。
壬生屋に何があったのかは知らない。そして何のために彼女がこうも絶望しているのかも。
ただ、見捨てることも出来ない。ここに壬生屋を一人にしてはいけないような気がして、舞は倒した 椅子を元に戻して、座り直した。
止むことのない鳴咽は続いている。
こういう時、どうすればよかっただろうか。父は決して優しい言葉をかけたりはしなかったけれど。
―――速水なら。
どうするだろうか、と考えて、舞は、おずおずの手をのばした。
そっと壬生屋の背中に触れて、ぎこちなく撫でてやる。
鳴咽は止まらない。震えている肩は今も変わらない。
だから舞は、ずっとそうしてやっていた。
空気が澱んでいる。
速水がぽつりとそう呟いた。彼はあと、ほんの少しの幻獣を手にかければ化け物になる。
いや、本当はもう化け物なのだけれど、それを手にすることによって、誰もが知る化け物になるのだ。
「…そうですか?」
士魂号から抜け出して感じる、ひやりとした空気は、高揚した身体には心地いい。
酷い高揚に、暴れ出したくなってもその冷えた空気が身体に鞭を打つようで、それが遠坂には心地よかった。だから、速水の言葉の意味がわからなかった。
「…なんていうのかな、近くに何かいる、っていう感覚。殺気?」
速水はそう言って肩を竦め、それからおもむろに振り返った。
振り向いた先には、三番機の整備士たちが忙しそうに動きまわっていた。
パイロットには出撃して勝つことが仕事だが、彼らはこれからが本番である。
けれどその中で一人、酷く動きが緩慢な人物がいた。
「……ね、遠坂。狩谷さぁ、なんか具合悪いのかな?」
その言葉に、遠坂も振り返る。普段ならば車椅子でも素早く動きまわって決して他の整備士たちに 迷惑をかけないようにしている彼にしては珍しい。
「…さぁ、どうなんでしょう…」
「…病院、行ってないのかな」
遠坂は何も答えなかった。答えられなかったのかもしれない。舞のかわりに遠坂に三番機に入ってもらったのは、速水がそう善行に頼んだから、というのもある。
遠坂が迷っているように見えたから、速水は彼を戦場に立つように仕向けたのだ。本人はそれを知らないだろうが、そういうことになっている。
パイロットになってから日の浅い遠坂が、目に見えて忙しくなるのは当然のことだった。身体も鍛えなければならないし、パイロットとして整備する必要もある。だから狩谷と疎遠になったとしてもそれは不自然ではなかった。
「…狩谷」
呼ばれて素直に振り返った狩谷の顔色は、あまりよくなかった。
元々白かった肌が、今は青白く見える。
「具合悪い?大丈夫?無理しない方が」
その言葉に、狩谷は一瞬、酷く敵意に満ちたまなざしを向けた。
が、それは一瞬のことで、すぐにいつもの彼に戻る。
「…病院が、幻獣に襲われてね」
「え?」
病院、と聞いて速水の顔色が曇った。病院には今、舞と壬生屋がいる。
だがあっさりとその考えは却下された。
「あぁ、違うよ。あんな大きいところじゃない。そもそもあまり近くもないんだ、僕の行く病院は」
「…あ、そうなんだ…でもじゃあせめて違う病院に」
狩谷はそうやって話していても、額に汗が浮かんでいた。明らかに不調のあらわれだ。
けれど狩谷は軽く笑った。
「いいんだ。おかげで定期検診は受けなくて済みそうだ」
とはいえそれではいそうですか、とするわけにもいかない。速水はさらに言い募ろうと口を開く。
「だって、汗かいてるよ。気分悪いんだよね」
「…あぁ、汗が止まらないのは薬がきれてるからだよ」
あっさりとそう言って、狩谷は車椅子を動かした。一瞬、速水が言葉を失っているうちに。
(…そっか)
狩谷があんなに卑屈だったのがわかった。毎日投与しなければならない薬。それはたぶん、考えているものよりずっと多いのかもしれない。
そんな風にしなければならないのなら、この世を怨むこともあるだろう。
けれど。
ふと近くを通りかかった来須に、速水は困ったように笑った。
「どうしよう。きっと、彼だ」
来須は何が、とは問わなかった。
ただ黙って速水の言葉にうなずく。
きっと、彼だ。
何が?と問われても、言葉には出来ない。けれど、彼だ。
根拠のない確信が胸のうちに広がった。
だって、
(狩谷の目、赤かった…)
それに、なんの言葉がいるだろう。
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