君以外はいらないんだ。君しかいないんだ。君の、その魂でなければ駄目なんだ。 雨が連日続いた。四月のはじめにしては珍しいことだった。 「…校舎の修理、しますか…」 司令である善行がため息をつきながらそう言った。もちろん逆らう者は誰もいない。 石津一人の力ではこれ以上はどうにもならないだろうし、暗雲のたれこめる空は次にいつ太陽を拝めるのかわからないほど厚い。 「こんなことしてる場合でもないと思うんだがね」 苦笑しながら瀬戸口は適当に工具を手にとった。 そばでは田代と速水が壁の修理をしている。それはそれで微笑ましい光景だと思える。 「まぁいいじゃない。最近は少し出撃も減ってきてるしさ」 たしかにそれは本当だった。もちろん各地で戦っている他の小隊の力もあったが、特に大きな力となっているのはこの5121小隊で、しかも今そんなことを言った男が幻獣を殲滅している。だから幻獣の数が少しずつ減ってきているのだ。 「…まぁな」 気づいているのかいないのか、それでも速水は普段と全く変わらない。 一ヶ月でアルガナを授与し、小隊の中ですら少しずつ恐れられるようになっている彼は、だがそんな彼らの言葉をどう受け取ったのか微塵も動揺していなかった。 滝川に怖いと言われても、笑顔だった。 あの笑顔は、たぶん幻獣を殺す瞬間とそう変わらない笑顔だ。 ―――速水が動揺ひとつ見せずにこうしていられるのは、芝村舞がいるからだ。 だから怖いのだ、この男は。 いつか自分と同じになる。いつかそう遠くない未来に、彼女を失ったら。 「瀬戸口?ぼけっとしてないでちゃんとやってよ。田代さんだってやってるんだから」 言われて、ふと速水の方を見れば、田代は僅かに顔を赤らめながら、壁に釘を打ちつけていた。 「…へいへい」 ため息まじりに身体を起こす。とりあえず今は適当にやっておくかと顔を上げれば、その視線の先に彼女がいた。 角材の置いてあるところで彼女―――壬生屋が一人で奮闘している。 さすがにどれだけ鍛えていたと言っても女だからか、そう簡単に持ち運べるものでもないようだ。 「助けに行ってあげれば?」 瀬戸口の視線の先を見て、合点がいったようにため息をついて速水が呟くと、むっとしたような声が返ってくる。 「―――…誰がだよ」 「瀬戸口が。他にいないでしょ。ここはほら、田代さんと僕とでなんとかなるしね」 それはたしかに速水が言う通りだった。この二人がいれば、さほど壁の修理に時間はかからないだろう。 だからといって、瀬戸口本人が壬生屋に助け舟を出すかと言えばそれは別問題だ。 「…俺は汗をかくのが苦手なんだ」 「格好悪いねぇ瀬戸口って」 適当に逃げようとする瀬戸口に、朗らかにきつく速水が言った。 どうしてこう、他人が傷つくことをあっさり口に出来るのかとそちらを見れば、速水は肩を竦める。 「女の子は守るべき存在なんじゃなかったの?例外は認められないよね」 「あれはそんなに可愛いもんじゃない」 「可愛いじゃないか。一人で持ち上げられないものと格闘してたりさ、一人で凄い訓練してたりして。健気だなぁと思うよ?」 「おまえは俺より素質があるよ…」 速水の言葉にまいったとばかりに両手を挙げる。 優しい顔で、人をほっとさせる笑顔で、普通だったら躊躇するようなことをさらりと言ってのけてなお平然としていて、誰に何を言われてもさほど表情も崩さない。 「…あぁ、ほら。瀬戸口がぼけっとしてるから」 行くべきかどうか悩んでいれば、視線の先で壬生屋と若宮が会話しているのが見えた。 軽く話した後、壬生屋が今まで持てなかった角材を軽々と持ち上げる。 元々スカウトで小隊付戦士である彼にはあれくらいは朝飯前だろう。 それでも、それを見て驚いている壬生屋の表情が。 「………」 「ははは。瀬戸口、ジェラシー?」 「冗談も休み休み言え」 「ふぅん?」 面白そうに笑って、速水は肩を竦めた。 それから黙々と仕事をしている田代のところへ行く。一人残された瀬戸口は、どうするべきか悩んだがそれでも、壬生屋から目が離せなかった。 「………」 声が聞こえるのに二人が何を話しているのかは聞き取れない。 まるで膜が張ってしまったような感覚だった。 若宮と話す壬生屋の、いきいきとした笑顔にどう表現することもできない感情が湧き起こる。 「……」 自分に向けられない笑顔に、怒りにも似た暗い感情が膨れあがった。 「…別に」 誰にともなく呟いたセリフは、最後まで言うことは出来ずに消える。 ―――あの人の笑顔が見たくて頑張ったことがあった。 ふと昔のことを思い出して、苦く笑う。 昔のことは自分の中では封印したはずだ。今はののみがいるから、彼女を守って生きていくと決めた。 それはたしかに事実で、彼女こそが守るべき存在だと思いながら、それでもなお気になってしょうがない。 「最悪だ…」 壬生屋とあの人を重ねそうになる自分に吐き気がする。 向けられない笑顔に嫉妬して、その笑顔を自分のものにしたいと思う、その理由があの人と似ているから、だなんて。 (半端に似てるから駄目なんだ) あの豊かな黒髪や、あの胴着や、青の目や。それら全てが。 全てが重なる。それが酷く嫌だった。 ののみの可愛らしい声がして、全員が昼食をとっている時のことだった。 「飯時で悪いんだがな」 本田が苦い表情で立ち上がった。しばらく沈黙をしている。全員の表情が僅かに引き締まった。彼女が言葉を濁す時は決して良いことではないからだ。 「最近このあたりでテロが頻繁に起こっている。気をつけろよ」 付け足しのように、たぶん幻獣共生派の奴らだろうと言った。 一瞬静かになった小隊の、誰もが三番機のパイロットたちを盗み見る。 このあたりでテロが頻発しているのは、誰もが知っていることだった。 ある日には道路に大量の血が流れたまま放置されていたこともあって、物騒になってきたことは皆実際に肌で感じている。 そしてそれが、速水と舞がアルガナを授与したあたりからであることも知っている。 アルガナを授与した者の今までの功績は、共生派の人間からすれば決して喜ばしいものではないし、むしろ邪魔な存在であるはずだ。テロが始まった時期と比べてみても、彼らがなんのためにそんなことをしているのかは薄々感じ取れた。 とはいえ当の二人はそんな空気をものともせず、ほのぼのとおかずの交換などをしている。 一人少し離れたところで食事をとっていた壬生屋の横に、音もなく坂上が座った。 「壬生屋さん」 「あ、はい」 少し驚いた顔をして、慌てて場所を作る壬生屋を見ながら、坂上がいつものように言った。 その視線の先は、サングラスで遮られていてわからない。 「今の話を聞いていましたね?…特にあなたは気をつけなさい」 「…え?」 わけがわからない、といったように目を白黒させる壬生屋に、坂上は笑った。 「あなたの一族は昔から幻獣と戦ってきたのでしょう。共生派の人間が快く思うはずがありません」 「あ…はい。わかりました」 あしきゆめと戦うために生きてきた壬生屋家の、最後の一人として生きている以上それは付きまとってくる問題だ。 それを思って壬生屋はゆっくりと目を閉じる。 「まぁ今は彼らのおかげであなたはさほど目立つ存在でもありませんが」 「…あの二人は…」 「彼らは平気でしょう。芝村ですから。共生派の人間たちはそこまで馬鹿ではありません」 壬生屋の言いたいことをきちんと把握した坂上が、何でもないことのようにさらりと言った。 芝村だから、という言葉に内心ほっとしながら、それでもそれが免罪符になるのは良いこととは思えない。なんともいえない顔をしていると、さらに坂上が言った。 「それにあなた自身も最近の活躍は目覚ましい。あなたの場合、目立つことは共生派の矢面に立つことと同意義です。少し考えて行動しなさい」 それだけ言うと、坂上は黙々と昼食をとりはじめた。 周りは皆、重い空気を払拭してすでに明るい雰囲気の中にいる。 だが、壬生屋は一人取り残された気分で、ぼんやりと箸をすすめた。 「なんだか元気ないね?」 「え!?あ、いえそんなことは」 夕闇も濃くなってきた時間に、教室に残っている者はそういない。 この時間は大抵、パイロットたちは訓練や仕事にまわすし、整備員たちも同じなのだから当然だった。 「速水さんこそ…珍しいですね」 「んー僕は来須か舞を探してたんだけど。ここに来なかった?」 相変わらずこの三人は仲がいい。 時にはその中に、小杉が入ったりののみが入ったりしているがいつも明るくて暖かい空気がある。 「いえ見かけませんでしたよ」 「そっか。うーんどこいっちゃったのかなー」 「…何かあったんですか?」 やけに気にしている風の速水に尋ねると、一瞬悩んだような顔をしてから少し頬を赤らめて笑った。 「ほら、昼の時に本田先生が言ってたじゃないか。テロが多発してるって。だから舞と来須が一緒にいるならそれでいいんだけど」 「…危険ですからね」 うん、と頷く速水の横顔を見ながら、微笑ましい、と思った。 舞を守るために、来須と速水が一緒にいるのはなんとなく雰囲気で知っている。 どちらもお互いを信頼していて、二人とも舞に向ける目は優しい。 そんなものが欲しいわけではないのだが、それでも時々無性にその立場がほしくなる。 男に守られるのが好きなわけではないのに、舞が羨ましくなる。 だがそれは表に出さずに、壬生屋は笑った。 「壬生屋も気をつけてね」 「私は大丈夫です。刀もありますから」 「…うん、でも一応女の子だし」 言葉の通り取り出した刀を見て、速水は苦笑している。 「じゃとりあえず僕行くけど…」 「はい」 「元気出してね」 無邪気に手を振って教室を出ていく速水に、壬生屋は困ったように手を振って、それから一つため息をついた。 こんなところにいるならばパイロットらしく、仕事なり訓練なりしなければと思う傍ら、今はなんとなくこの教室から出る気になれずに壬生屋は速水が出ていった入り口のあたりを見つめる。 この時間、教室はどこもかしこも茜色に染まっていて不思議な雰囲気になっている。 いつもと同じ場所なのにどこか違う場所のような錯覚を覚えながら、僅かに感じる残照の暖かさに、いつしか眠くなって自然とその瞼を閉じた。 仕事を終えてため息をつきながらその場から離れる。 思った以上に長い時間、仕事をしていたようだった。自分にしては珍しいと笑いながら、それがあの時のことを忘れるためだという情けない理由にさらに苦笑する。 考えている以上にダメージを食らっているようで、足元がおぼつかない。 もう帰ろうと校門へ足を向けているところに、こちらに走ってくる速水が見えた。 彼もこちらに気づいたようで、元気よく手を振って走り寄ってくる。 「瀬戸口―」 「…どうした?」 「ん。来須か舞を探してるんだけどね。…ていうか瀬戸口、なんかだるそうだね」 「そうか?」 相変わらず勘がいいと内心で舌打ちをすると、何かを思い出したように手を打った。 「うん。そういえば壬生屋さんも元気なかったけど」 速水のその言葉に心臓が高鳴った。 「…壬生屋が?」 そう言えばハンガーにもいなかったようだった。いつもは仕事時間に一度は顔を見るはずが、今日は一度も見ていない。 「何?なんか関係あるの?」 「……あるわけないだろう?」 かたい声音でそう返すと、速水は少し目を細めた。 「ならいいけど。何時間か前には教室にいたよ。ぼーっとしてた。珍しいよね」 疲れてるのかなーと呟く速水を見ながら、脳裏に浮かぶのは壬生屋の笑顔だった。 昼前まではたしかにいつも通りで、むしろいつもより元気で若宮に笑いかけていたはずだ。 「ま、いいや。僕はもう少し探すけど、どっちか見かけたら僕が探してたって言っといてね」 速水がハンガーの方に走っていくのを見送ってから、瀬戸口は一つため息をついた。 時計はすでに一日の終わりを示している。この時間ではもういないだろう、とそう思いながら瀬戸口は無意識にプレハブ校舎の二階へのぼる。 階段をのぼる足音を忍ばせている自分に、ほんの少し笑えた。 教室には光もない。誰もいないのだろう。そう思って、瀬戸口は肩を竦める。それは当然のことで、何を期待していたのかと自分に笑う。 「…?」 だが、教室の扉を開けて瀬戸口は声もなく立ち尽くした。 「…壬生屋」 机に突っ伏してみじろぎ一つしない。静かな暗闇の中で、壬生屋の寝息だけが聞こえる。 速水がどれほどの時間、舞と来須を探していたのかは知らない。 だがその間、壬生屋はずっとここに一人でいたのだ。 「…おい」 声をかけても、反応はなかった。相変わらず規則正しい寝息が聞こえてくるだけだ。 起こすべきなのかもしれないと思ったが、気がつけば、その髪に触れていた。 指先に感じる髪の感触が、その触れてもすぐにこぼれ落ちる艶やかな髪が―――似ている、と思った。 壬生屋の髪をもう一度手にとって、そっと口づける。 自分がどうしてこんなことをしているのかがわからなかった。 (違う) 彼女が、おぼろげな記憶の中に残るあの人と少し面影が似ているから、だからこんなことをしているのだ。 あの人はもっと優しいし、綺麗で暖かかった。 だから、違うのだ。この感情は、あの時のものとは全然違うのだ。 彼女の笑顔を見てショックを受けたのは、ただあんな笑顔を見たことがなかったからというだけで、彼女の笑顔が忘れられないのも、こんな風に髪にくちづけたのもただ雰囲気に流されただけだ。 だから違うのだ。彼女に対する思いは、そんな感情ではないのだ。 「…ん」 必死に自分の行動や感情に弁明をしていると、突然壬生屋がみじろぎをして起き上がった。 寒かったのかもしれないし、もしかしたら瀬戸口に気がついたからかもしれない。 「…やっとお目覚めか?」 髪を手にしたまま瀬戸口が声をかけた。 その声は普段よりいくらか硬かったかもしれない。 「私、ずっと眠って…!?」 「俺は今来たところだから知らないけどな。…いい御身分じゃないか?」 瀬戸口の声に揶揄するような響きが含まれているのに気がついたのか、壬生屋が立ちあがろうとする。 「…ッ!」 だが何かに髪を引っ張られて椅子に座り直す。振り返れば瀬戸口が壬生屋の髪を握っていた。 視線を感じたのか、まるで見せ付けるように髪に口付ける。 「!?な、何するんですか!!」 火が噴き出るように顔が赤くなった。 プレハブを照らすライトだけが僅かな光となって教室の中の闇を薄くしている。 叫んでも、瀬戸口は髪を放そうとしない。身動きのとれないまま、椅子に座っていた壬生屋に覆いかぶさるように近づいてくる。 「ちょっ、やめてくださ…!」 恐怖にかられて目を閉じる。だが、触れるか触れないかの至近距離で聞こえる、瀬戸口の声にそっと目を開けた。 「おまえはずるい」 あとほんの少し。お互いが少しでもみじろぎすれば唇が触れ合うほどの近さで、瀬戸口はさらにうわごとのように囁いた。 「無意識に俺を苦しめる」 「…な、なんのことで…ッ」 身に覚えのないことを言われて、条件反射のように反論しようと口を開く―――その瞬間。 「たすけてくれ…」 その言葉の意味を聞くよりも早く、唇がふさがれて、壬生屋の青い瞳が揺れた。 |
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速水ってばどれくらい探しまわってたんすか!とか考えちゃめーなのよー(爆)。 なんだかだらだら長いような気がします。とほほ。ところでいつ終わるんだろうとかいうのもめーなのよ(爆)。 |