No, LastScene -5-
 君以外はいらないんだ。君しかいないんだ。君の、その魂でなければ駄目なんだ。



 壬生屋の髪を強く掴むと、小さな悲鳴が口から洩れた。
 その声にようやく自分が何をしようとしていたのか悟って、瀬戸口は弾かれたように身体を離す。
 無理にくちづけた。そのまま、嫌がる壬生屋を押し倒して、もう戻れないところまでいってしまおうと思った。
 目の前の壬生屋は、まるで恐ろしいものでも見たような顔をしている。
 はだけたあわせの部分を握りしめて、震えている。
「…冗談、だ」
 声が掠れた。冗談にしては悪趣味すぎる。自覚はあったがそれ以外の言葉が出てこない。
 まばたきするのを忘れたかのように見開いたまま、髪をかきむしった。
「…悪い。ちょっと、疲れてたんだ」
 もっと気の利いた言葉はないのかと、ほとんど真っ白になっている頭で考える。
 混乱していたのだ、と自分に言い聞かせながら。
 遠い昔の記憶と今が整理できなくて、混乱して、だからあんなことを―――。
「壬生屋」
 名を呼ぶと、びくりと震えた。
 見上げる青い瞳が痛い。きっと、今の自分の瞳は赤いかもしれないと考えながら、そっと手を伸ばす。
「ぃ、や…ッ!」
 途端に、壬生屋が掠れた声で悲鳴を上げた。机にぶつかりながら、瀬戸口の手から逃れようとあとずさる。
 当たり前だと、そう思いながら行き場のなくなった手を困ったように見つめた。
 出来ればその顔で、その瞳で、怯えきった目で見てほしくなかった。じわりと広がる痛みに、瀬戸口は目を覆う。
 違う違うと何度頭の中で否定しても、それは遠い過去の、あの人と重なりあった。
「壬生屋…」
 ふらりと一歩、彼女に近づけば、予想された通りに壬生屋はあとずさった。
 何度かそういうことを繰り返していくうちに、背中が壁にぶつかる。その冷たい感触に、壬生屋は慌てて横に逃げる。そうしていくうちに、ついに逃げ場がなくなって、壬生屋は震える手で鬼しばきを鞘から抜いた。
「それ以上近寄らないでください…!!」
 だが、瀬戸口はその威嚇が目に入らないのか、歩みを止めない。
「…殺してくれるのか?」
 その言葉に、壬生屋は困惑したまま顔を上げた。
 薄闇の教室の中で、瀬戸口の表情が鬼しばきの鈍い光に照らされて微かに見える。
―――まるで泣きそうな目だった。
「……来ないでください…!」
「俺を斬るなら、しっかりやってくれ」
 震えたまま刀を握る壬生屋の手を、瀬戸口が包むように握った。
「女でも、ここを斬れば致命傷になるはずだ」
 首を指さして暗く笑う。
 自分が何をやっているのかわからない。何をしたいのかもわからない。
 そんな目で見てほしくないと思ったからこうしているのだと、頭では理解していても感情がついてこない。
 その目でそんな風に見ないでほしいと思うならどうして触れたりしたんだと自問しても、答えなど出なかった。



「何やってんの瀬戸口?」
 呼ばれて顔を上げ、ようやく朝になったのだと知った瀬戸口は、ぼんやりとした顔で速水を見た。
「…寝てただけだ」
「家に帰らなかったの?もしかして」
―――あれから。
 しばらくお互い無言だった。壬生屋も自分を見ていなかったが、瀬戸口も壬生屋を見てはいなかった。ただ無為に時間が流れていくのを感じていた。
 その沈黙に耐えられなくなったのは、壬生屋だった。
 手にした鬼しばきをそのまま、瀬戸口に向けるでもなく鞘にしまう。
―――あなたが、私のことを嫌ってるのは知っています。
 刀を持つ手が震えていた。
 気が動転したまま、自分が何をされそうになったのか、それがどういう意味だったのか。
 きっと理解できなかったのだ。
―――だからって…ッ!!
 ほとんど悲鳴のような声だった。
 …泣いていた。
「瀬戸口―?」
「あ、あぁ…。ギリギリまでいたからだるくてな」
「瀬戸口がそんな時間までいるのって珍しいよね。珍しいといえば壬生屋もいないけど」
 壬生屋の名前が出た途端、ぴくりと身体が反応した。
 あんなことがあったのだから、たぶん今日は学校には来ないだろう。
「…」
「ほら、壬生屋って一時間前から学校に来てるからいつも。今日は変な日だなー」
 そう言う速水にはなんの邪気もない。
 もちろん含みもない。だがやけに心にひっかかるのは、やはりやましいものがあるからだろうか。
 机に突っ伏して、時間がたっていることを忘れるほど世界を閉ざしてみても、結局のところ寝たわけではない。そのせいでどこか身体に覇気がなかったがそんなことに構ってはいられなかった。
「あれ滝川どーしたの?顔色悪い…」
「うーいや、朝さー、道路で嫌なモン見て」
 ふらふらと教室に入ってきた滝川に、速水が素早く声をかけた。
 気持ち悪そうに席につく。たぶん彼が見たのは最近横行しているテロの被害者か何かなのだろう。
 テロたちの行動は何をしたいのかいまいちよくわからなかった。パイロットである自分たちに幻獣を殺すのをやめろと声高に叫ぶ。そしてそのテロで関係ない人間が死ぬ。
「運が悪かったね、朝からだなんて」
「思い出したくもねぇよ。あーッ!ちくしょーッ!!」
 髪をかきむしって、滝川はなんとか朝見た光景を忘れようとしているようだった。
 そうやって騒ぐ滝川の横で、速水はぼんやりと笑った。
 その笑顔は、たぶん幻獣を殺す時にする顔なのかもしれない。
「今日は壬生屋さん、休みかなぁ…。テロのこととか考えると、学校に来ないってだけでちょっと不安だな。ね、瀬戸口」
「…平気だろ」
 家で武芸を仕込まれていると言っていたのだから―――そういう理由で返せば、速水はどこか意地の悪い笑みで頷いた。
「そうだねぇ…」
 気がつけば本田の姿が見えた。そんな時間になっても、壬生屋の姿はどこにもない。
 一番窓際の、二列目。
 そこだけがぽっかりとあいていて、瀬戸口はぐっと耐えるように口をつぐんだ。



「みおちゃんはおびょーきなの?」
 昼休み。その日は天気がいいから外で食べよう、という速水の意見に従って屋上に来ていた瀬戸口たちに、ののみが少し不安げに首を傾げた。
「うーん。たぶんね。僕も詳しいことは知らないんだけど」
 答えない瀬戸口にかわって、速水が答えた。舞も知らないらしい。来須も何も言わなかった。
 ののみが首をかしげる。
 視線を感じた。顔を上げてののみの表情を見ることが出来ないまま、瀬戸口は黙りこくっている。  沈黙が痛かった。
「壬生屋のうちにいってみようか?」
「みおちゃんち?」
 速水の言葉に、ののみがぱっと顔を上げた。その提案のタイミングの良さに、瀬戸口はほんの少しだけ安堵する。
 あれ以上ののみに見つめられていれば、どうなったかわからない。
「瀬戸口も行こうよ」
「―――俺は…」
 どんな顔で壬生屋に会えばいいのだ。思い出すのは、動転した壬生屋の悲鳴や泣いている顔ばかりで―――そんな表情をさせたのは全部自分だというのに。
 しかも、昨日の今日だ。
「たかちゃん?」
 ののみが瀬戸口の顔を覗き込む。今は真正面からののみの顔を見ていられる余裕はなかった。思わず、ふいと顔を背けると、ののみが真剣な様子で訴えかける。
「たかちゃん?なにかにまよってるの?」
 やめてくれ、と形振り構わず立ち上がれば、速水がさっと間に入った。
「あのね、瀬戸口は徹夜しちゃったから疲れてるんだよ。だからちょっと変なんだ。大丈夫、後で一緒に壬生屋のとこに行こうね」
「…うん。えっとね、みおちゃんのすきなもの、きいたことがあるの」
「じゃあそれ買っていこうか」
 場の雰囲気を察してか、舞が立ち上がった。来須はそのままだったが、舞も速水も特別止めようとはしなかった。
 立ち尽くしている瀬戸口に、来須は声をかける気はないようだった。
 元々無口な男だから、ここに残ったとしても喋る気はないのかもしれない。
「……速水の勘の良さには嫌になる」
 だから、瀬戸口は自分から話しかけた。それはいっそ独り言に近いものだったが、来須はゆっくりと頷く。
「そういう奴だ」
 最近、来須は速水と一緒にいるから、よく知っているのかもしれない。
 ののみのような、同調能力が特別にあるわけでもないくせに、速水は知り合った時からそうだった。
 人の表情や言葉の奥にある感情で、まるで何もかも知っているかのように。
「……たまらんよ、俺みたいな奴には…」
 ののみの力も、速水の勘も、―――壬生屋のあんな表情も。
 どうすればいいのかわからないのだ。長く暗い記憶の中で、はじめて出会った、そっくりな少女を、どう接してやればいいのかが。
「………」
 吐き気がするほど似ていて、錯覚してしまう。こんな人ではなかったと言い聞かせながら、時折その姿を重ねている自分が確実にいる。
 唇を重ねた瞬間の、何かが切れるような感覚が、肌の粟立つような感覚が―――それが何なのかがわからない。
「俺には、速水や東原のような力はない」
 来須がぽつりとそう言った。帽子で見えないその目が、壬生屋や速水と同じで青いことを瀬戸口は知っている。
「…それで?」
 力なく、瀬戸口は先を促した。視線を感じたが、瀬戸口はまともに来須すら見られなかった。
 あの青い目が怖い。
「……苦しいのは、わかる」
 来須の言葉には、重圧に似た何かがあった。身動き出来ないまま息を詰めていると、立ち上がる気配を感じた。それ以上、かける言葉はないようだった。踵を返す。
 その後ろ姿に、瀬戸口は叫んだ。
「だからどうしろって言うんだ!?俺は…ッ俺はもう、生きるだけで精一杯だ、他人に振り回されるのはごめんだ。あんな目で見られたって俺にはどうしようもないんだ…!!」
 叫びながら、何を言っているんだと笑いたくなる。
 来須に八つ当たりをしたところで意味がない。そんなことはわかっている。
 壬生屋に、似ているからというだけできつく当たるのもお門違いなのは知っている。
 それでも自分を保つ方法をそれ以外知らないのだ。気を抜けばどうなるかわからない自分を、繋ぎ止める方法が。
 立ち止まった来須が、そのままで呟いた。
「…そのままでは、どうしようもない」
「―――」
「……おまえは、立ち止まったままだ」
 瀬戸口はもう何も言えなかった。来須はそれだけ言うと、また歩き出した。階段を降りていく足音が聞こえる。
 強く拳を握った。自分がどうしたいのか、どうすればいいのか、わからなかった。
 ただずっとそうしていた。
 この感情がなんなのかわからない。

 泣いてしまえれば楽だ、と思った。

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お久しぶりになってしまいました(汗)。ところでこのノーラストシーン、今更ながらに裏設定を使ってます。理由は裏設定使って二人を幸せにしよう!という目論見でありまして、裏設定否定派の瀬戸壬生の方には申し訳ないです。でもだってまるであの設定じゃくっついても悲恋にしかならないっぽく思えたので…。二人で幸せになってほしーじゃーん…(笑)。
まぁ裏設定に対する言い訳はこの程度にして、今回書いててののみの「みおちゃんのすきなもの」のところで悩んでしまいました。だってイヤリング…買ってってもなぁ(笑)。
そして来須の台詞回しにえーらい時間を食いました。その節は藤井さんありがとう…(笑)。