君以外はいらないんだ。君しかいないんだ。君の、その魂でなければ駄目なんだ。 (…くそッ) 抱き寄せて、優しい言葉を口にしてから、瀬戸口は内心舌打ちをした。 その顔で泣いてくれるなと思う。その顔で、その姿で、その目で弱い姿を見せてほしくなかった。それなのに、腕の中に彼女がいると思うと、それだけで指先が痺れるような感覚が襲う。指先に感じる彼女の身体のぬくもりや、黒髪の感触に、瀬戸口はもう一度舌打ちした。 今はそんな時ではない。わかっている。 ―――わかっているのに。 なんだかこうしていたかった。せめて泣き止むまで、と思う。 (何考えてるんだ俺は) 泣かせたことの方が多くて、まともに会話したことなどほとんどなくて、それなのにどうしてこんな風に、優しくしているのだろう。 似ているから、だろうか。もしもそうなのだとしたら、今までの嫌悪感はどこに消えたのだろう。 泣いている彼女を見るのは辛かった。泣かせた後は必ず落ち着かなかった。でもそれでよかったはずだ。 どれくらいそうしていたか、瀬戸口にはわからなかった。ただじっと壬生屋が泣き止むのを待って、しばらくした頃。 「…と、取り乱して…申し訳ありません」 掠れた声だった。慌てて瀬戸口から離れる。とっさにその壬生屋の腕を取りそうになって、不自然に手が動いた。 「………いや」 自分の行動がわからなかった。なんだろう、この胸に残る感覚は。 なんでこんなに、寂しいと思うのだろう。 「…すっきりしました」 「そう、か…」 ほんの少し、口元が綻ぶ。その一瞬の表情に、瀬戸口は目を瞠る。 ―――笑った。 目元は泣いたせいで少し赤く腫れていた。それは若宮に見せた笑顔と種類は違っていたけれど。 この状況下だから、心から楽しくて笑ったわけではないだろう。けれど、その笑顔に瀬戸口は言葉を失った。 「…ご迷惑をおかけしました」 「……」 うまい言葉が出てこなかった。こういう笑顔を、自分はどこかで見たような気がした。 なんだろう。いつ見たのだろう。 ほんの少し寂しげで、ほんの少しだけ嬉しそうな、その笑顔を。 「私、戻ります」 「―――何?」 その笑顔に気をとられていた瀬戸口は、壬生屋の言葉に眉を顰めた。 「こうして逃げ回ったとしても、どうにもなりませんし」 「…馬鹿か!?どうしてわざわざ」 「だって私、家に帰れなかったらどこへ行けばいいのかわかりません」 凛とした声だった。さっきまで泣いていて、震えていたくせに、今はそんな風には見えない。誰かの姿が重なった。 「それとも、瀬戸口さん私のことかくまってくれますか?」 どこか冗談めかした口調だった。頭が痛い。何が面白いのか、瀬戸口にはわからなかった。 ただ腹が立って、苛々した。なんで笑っている?どうして笑える?何を考えている? 「…わかった。来いよ、かくまってやる。…だから戻るなんて言うな」 瀬戸口の言葉に、今度は壬生屋が驚く番だった。目を見開いて、瀬戸口を凝視する。その青い瞳に射られるような気分だった。 だが、ここで目を逸らすわけにはいかなかった。 しばらくそうして二人で黙り込む。沈黙を、痛いとは感じなかった。 「……不潔です」 いつもの、強い押し付けるような口調ではなかった。子供をあやす母親のような口調で、やはりどこか冗談めかしていた。 笑っている壬生屋が嫌だった。こんな風に笑う奴ではなかったはずだ。彼女らしくない。 「どうとでも言えばいい」 「駄目です。…私は、帰らなければ」 そうやって動こうとしない壬生屋の手を取って、無理にひきずればよかったのだろうか。 嫌がられても、話など聞かずに。 「…大丈夫です」 (―――何がだよ) 頼むから笑いながらそんなことを言わないでほしい。どうしてそんなに穏やかに笑うんだろう。さっきまで怖がって泣いていたのではなかったのか。 「私、強いですから」 (俺に押さえつけられる程度のくせに) 本当はあの時、やろうと思えば彼女を犯すくらいのことは出来た。錯乱していた自分はたぶん、正気に戻らなかったらそうしていただろうし、そうなったら壬生屋は逃げられなかったはずだ。 …そうやって、自信も何も粉々にしてやればよかっただろうか。 自分は強いなんて言える口を封じてしまえばよかったのか。 「それに、たぶん…殺されはしないと思います」 (甘いんだよ) 集団の人間の怖さを知らないのか。ひとかたまりになって声高に論議を交わすうちに彼らは人間らしさを失うのだ。自分たちは強い自分たちは神であるとそこまで思えるほどになるのだ。 ―――奴らの前に戻った壬生屋がどんな目に遭うか。 そんなのは、考えなくてもわかる。彼女だって、そうやって死んだのだ。 (繰り返しだ) あんな最後は嫌だった。地面に広がる彼女の黒髪を見るのは嫌だった。どれだけ揺さぶっても抵抗すらない、あんな最後は見たくない。 けれど、どうやってそれを伝えればいいのかがわからない。 「…壬生屋」 「……はい」 すっかり忘れていたそれを、瀬戸口は押し付けるように壬生屋に渡した。 可愛らしいラッピングは、この場の雰囲気からずいぶんと浮いている。 「…速水たちが見舞いに」 何をやっているのかよくわからなかった。何をしたいのかもよくわからなかった。 ただ、身体が勝手に動いて、無理矢理壬生屋に見舞いの時に渡すはずだったプレゼントを差し出していた。 そうでもしないと、すぐにも行ってしまいそうだったからかもしれない。 (我ながら女々しいじゃないか…) 壬生屋は、しばらく困ったように手の中のそれを見つめていた。 瀬戸口は俯いたきり顔を上げない。 「…可愛いですね」 「…………」 「ありがとうございます…」 小さなサボテンの植木を、壬生屋は嬉しそうに見つめる。こんな時でなかったら、もっと違ったかもしれない。もっと真正面からその笑顔を見つめることが出来たかもしれない。 けれど、今は無理だった。 「大切にしますね」 「………あぁ」 頷くだけが精一杯だった。 結局自分はこういう運命なのだろうか。幸せなんてものは縁遠いのだろうか。 「…でも、もしも私に何かあったら…このサボテンに水あげてくださいね。大切にしますから、私に何かあったら」 「…やめろ」 頭が割れるように痛かった。咽喉の奥が熱い。何もかも吐き出して、身体の中を空にしたら楽になれるだろうか。 「…強いんだろ」 「…そうですね」 頼むから笑わないでくれと思った。咽喉の奥で何かがひっかかっている。けれどそれは吐き出してはいけないものだ。吐き出して、気づくようなことはしてはいけない。 だから瀬戸口は、強く拳を握りしめた。血が滲むほど強く握りしめて、それでもたりなかった。 「…じゃあ、行きます」 「―――…ッ」 とっさに呼び止めそうになる自分の声を、伸ばしかけた腕を、瀬戸口は自由にはしなかった。必死に耐える。 (…なんで、俺は) 何かが麻痺しかけた頭でぼんやりと考える。 なんで自分は止めないのだろう。どうして止めないのだろう。どうして、自分を押さえつけているのだろう。どうして自分の思うようにしないのだろう。 「瀬戸口さん」 壬生屋が、振り向かないまま瀬戸口を呼んだ。とっさに顔を上げれば、姿勢を正した彼女の後ろ姿が見える。 「…あなたは、東原さんを守って。私は大丈夫ですから。私は強いですから…」 それだけだった。 目眩がした。 それから、壬生屋は何も言わずに歩き出した。強い後ろ姿だった。 だけどそれがなんだと言うのだろう。 さっきまで泣いていた、あれは忘れろとでも言うのか。震えていたくせに、泣いていたくせに、怯えていたくせに。 「…やめろ…」 平気な顔をするな。人を安心させるように微笑むな。そう言うのなら、弱いところなど見せるな。 「行くな…行くな!」 こんな時に、笑った顔ばかり思い出す。ただ、思い出すのは寂しげな笑顔ばかりで、心から笑っているところを、自分は見たことがなかった。 人と話している時の顔ではなくて、自分と話しているときの彼女の笑顔を。 叫んでも、壬生屋は振り返らない。歩調も緩めない。少しずつ遠くなる後ろ姿を見つめて、瀬戸口は声を張り上げた。 何を押さえつけていたのかも、もう忘れた。 自分の中で決めていた、決して彼女に深入りしないと。けれど結局最初からそんなものは無理だった。 「やめろ…行くな、行くなぁぁぁッ!壬生屋ぁぁぁぁぁぁぁ!」 (誰か助けてくれ…) 胸が痛かった。息が出来ない。締め付けられているようだった。 叫ぶしかなかった。どうすればこの苦しさから逃げられるのかわからない。 わからないまま、何度も叫んだ。 それからしばらくして、夢に見たのと同じシーンだと気づいた頃にはもう声は枯れていた。 |
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言い訳させてください先生(笑)。ちょっと前からだらだら書いていたんです。ラスト3行程度を書いただけなんですあわわ。ところでようやく書きたかったシーンその1が終わったのです。なんか昔似たようなこと言いながらネット上で終わらせなかった話があったなぁとちょっとひきつりつつ。あわわ。 |