No,LastScene -9-
 君以外はいらないんだ。君しかいないんだ。君の、その魂でなければ駄目なんだ。

 どこかから水の音がする。
 ゆっくりと瞼を開けば、そこは相変わらず自分を閉じ込めている牢の中だった。
 目前にはがっしりとした鉄格子が嵌め込まれ、これみよがしの錠が施されている。
 ふと、視線の先に冷え切った食べ物の乗ったトレイが目に入った。
 そういえば咽喉が渇いている。一日に一度だけこうしてやってくる食事は、いつも冷え切っていて向けられる敵意のようなものを感じた。
 それでも、食べないわけにはいかない。そう思って、ずっと。一週間、だっただろうか。
―――よく、聞いてください。
 ゆっくりと丁寧な口調を思い出す。あれは―――あれを伝えに来てくれたのは、誰だっただろうか。
―――これから、食事には一切手をつけないでください。水も、です。
 思い出した言葉に、壬生屋の手が止まる。
 そうだ、あれは同じ小隊の仲間の、遠坂が言った言葉だった。
 彼は、それからなんと言っていただろう。
 少しずつ、糸を手繰るように思い出す。
―――…彼らは、あなたを直接殺すことはしないはずです。
(…ころす…)
 指先が冷えるのを感じた。指先から、血の気がさぁっとひいていく。
 どうして自分がこんなに、その言葉に反応を示すのか。
―――彼らはあなたが、少しずつ、弱っていくことを望んでいます。
 捕らえられた先にいたのは、見たこともない人々だった。
 名前も知らない人間たちに連れてこられたのは、この薄暗い牢の中。
 鍵をかけられ、それ以来人の姿さえまともに見ていない。
 そんな人たちに、自分がどうしてそんな風に思われなければいけないのだろう。
―――そういう、薄い毒を、盛っているはずです。
 どうして、そんな風に。

「泣いているの?」

 突然暗闇から声をかけられて、壬生屋は肩を震わせた。
 じっとりと暗い牢の中に、それよりももっと黒い闇がある。
「……泣いてなんて…」
 気がつけば、その黒い闇はじわじわと辺りを侵食している。コンクリートの壁を侵食し、鉄格子を覆い、自分のいた場所すらもその闇に吸い込まれる。
 だがその闇を、壬生屋は怖いとは思わなかった。
 そんなものよりも、もっと怖いものを知っている。そう思って、壬生屋はゆるゆると近づいてくる闇に身を任せた。
「…怖いのでしょう?」
 その問いかけに、壬生屋は眉を顰めた。
 まるで自分の心を読まれているような気がして。
「…怖くなんて、ありません」
 闇は、すでに全てを包み込んでいた。闇の先にあったのは、けれど闇ではなく、薄暗く、冷たい場所だった。
 どこかから水の音がする。
「何か、とても悲しいことがあったのね?」
 暗闇の中、その人の黒髪がひとふさ、音をたてて肩を滑り落ちた。
 こんな暗がりの中、その人の艶やかな黒髪が一際美しく、明らかにまわりのものとは違って見える。
「………」
 壬生屋は答えられず、唇を引き結んだ。
 その態度に、相手が笑うのがわかった。
「無理をしなくても、いいのよ。本当は、泣いてしまいたいのでしょう?無理をしているでしょう?泣きたいのでしょう?」
 その人の白い肌が、暗闇に浮かび上がる。
 腕が、壬生屋に向けて伸ばされる。
「おいでなさい」
 優しい声だった。どこか懐かしいような気分になって、壬生屋は、奥歯をきつく噛む。
 そうしないと、泣いてしまいそうだった。
「いいのよ。泣いても。…身体の自由にさせておやりなさい」
―――…無理に止めなくていい。身体の自由にさせてやれ
 そう言ってくれたのは、誰だっただろう。
 途端に涙が溢れた。開いた唇からは鳴咽がもれて、壬生屋は崩れるようにその人の手をとった。
「辛かったのでしょう…?」
 泣きじゃくる壬生屋を抱きしめながら、その人も泣いていた。
「だからこんなところに来てしまったのでしょう…?」
 たった一人、歩むべき道を間違えて、行くべき場所から逃げ出して―――こんな暗いところへ。
 先の見えない光の道よりも、ただ背後に伸びる暗い道を、ひたすらに走って。
 慈悲の込めた声で呟かれるそれらに、壬生屋はただ頷くしか出来なかった。
 そうだ。自分は、辛くて、苦しくて。
 日ましに重く苦しくなっていく身体と、朦朧としていく頭で、ぼんやりと思う。
 ああ、私は殺されるのだと。
 パイロットのはずの自分が、人に害をもたらす幻獣を狩る自分が、人に殺される。

なんどめ?

 無意識にそう思って、はじめてのはずだとそう考え直しても。
 気がつくと、心のどこかが騒いでいる。
 また、人に殺されるのだと。
 私はまた、人に裏切られるのだと。
 ふと、泣きはらした目でその人を見た。病人のような白い肌に、艶やかな黒い髪。
 そして美しい、青の瞳。
「…あなたは、どうしてここにいるのですか…?」
 まるで日に当たったことがないようなその肌の色に、ふと疑問に思う。
 この黒い闇の中、決して同化することなく、いつからこの人はここにいるのだろう。
「…聞いては駄目」
「……え?」
 その人が、涙をこぼしたままでそう呟く。
「駄目よ」
「…どうして、ですか?」
 強い拒絶ではなかった。やんわりと柔らかく、けれどたしかな拒絶を繰り返す。
「…駄目なのよ」
 それ以上、彼女は何も言わない。
 ふと、金属の音が聞こえた。その音のした方へ視線を落とすと、彼女の足を拘束するように、鎖が繋がれていた。
「…あなたも、捕まって…?」
 顔を上げれば、その病的に白かった肌にぼんやりと模様なものが浮かび上がっているのが見えた。青かった瞳が、抉られて酷い傷をつけていた。鎖に繋がれてなお、彼女の足には立ち上がることも出来ないような傷があった。
「…酷い…」
 また涙が零れた。
 よく見れば、彼女の足の戒めは引き千切られていた。自由のはずの彼女は、それでも立ち上がれない。
「…でも、自分の身を嘆くことは、しないのよ」
 目も見えない。足も動かせない。決してここから逃げ出せない。
 太陽の光を浴びることもなく、ただ、生かされているだけの人生を。
「嘘…」
「私は、可哀相ではないから」
 壬生屋の涙を、見えていないはずの彼女はまるで見えているかのように、ぬぐってみせた。
 そうして、まるで本当に笑っているかのように口元を綻ばせる。
「嘘、です。…動きたいと思うことはないのですか」
「…思うけれど」
「だったら!」
 詰め寄った壬生屋の髪を愛おしげに梳いて、彼女は微笑んだままに、呟く。
「あなたがここに来てしまったのと、同じ」
「―――え?」
 心臓が、高鳴るのを感じた。
 黒かった闇の中に、水の音がする。どこかから、水が零れて落ちていく音。
「同じなのよ」
「…何、が」
 ふと、彼女が自分とよく似ている気がした。
 流れるような黒髪も、もう抉られてしまった、あの青い瞳も。
 胸が痛くなるほど、心臓が早鐘を打っている。その音がやけに耳の奥に響くので、彼女の声がよく聞き取れない。
「あなたは、どうしてここに来てしまったの?」
 辛くて、苦しかったから?
「私は、やり直しは望んでいないのに」
 気がつけば、彼女は泣いていた。潰れ、抉られた瞳からは涙も出ないはずだったが、それでも、頬を伝って涙が落ちていく。
「どうしてあなたは、私と同じ髪をしているの?どうしてあなたは、そんな胴着を着ているの?どうしてあなたの瞳は青いの?…ねぇ、それは」
「やめてください!」
 聞いてはいけない言葉を、彼女は口にしようとしている。
 そんな気がして、壬生屋はとっさに耳をふさいだ。
 けれど、声は全てを貫くように響く。

「私のせいなの?」

 遠くで、水の音がしている。
 ぽたり、ぽたり、と零れていくそれは、酷く赤い色をしていた。
 それが血であると知るのには時間がかかった。
 もっと顔を上げると、そこには引き千切られた、無残な死体があった。
 それらはまるで、飾られているようだった。
 ―――最後にみた、兄の姿だった。
 兄は幻獣に殺された。串刺しにされてまるで飾り立てるように。全てを赤く染めあげるように。
 戦おう、と思った。
 兄の、仇を討とうと、刀を握った。たとえ誰に注意を受けても、受け入れることは出来なかった。それでたとえ、立場が悪くなろうとも。
「…違います…私、は、私の意思で」
「嘘」
 兄を殺された。だから刀を握った。
 だから戦おうと立ち上がった。
「ひきずられてしまっているのね。あなたは…私に」
「違います…あなたのことなんて、知りません」
 自分で刀を手に取った。誰に何を言われても、壬生屋の家のしきたりに従って、胴着を脱ぐことをせず、髪も切らず。
「…せめてその胴着を脱ぐことができたら、ここに来ることもなかったのにね」
「…意味がわかりません」
「私が、ここにいる限り、あなたはひきずられてしまう。私に」
「ひきずられてなんていません!」
 髪を伸ばしたのは、そうしたかったから。刀を取ったのは兄のため。―――胴着を、脱がなかったのは。
「…私は、私の意志で…」
 自分の意志で、と言い切ろうとして、壬生屋は言葉を失った。
 どうして自分は、胴着を脱げなかったのだろう。壬生屋の家のしきたりだったから、だろうか。
 それならば、どうして小隊の制服を着る舞や他の仲間たちを羨ましく思ったりしたのだろう。
「………違う…違います」
「あなたを、苦しめる気はなかったのよ。…私は、本当に、やり直しは望んでいないのよ」
「……あなたは…なんなんですか…」
 答えは、聞かずともよかった。本当は、その声を聞いた瞬間からわかっていたのかもしれない。

 たとえば。自分が何かを決めたとして。それは、自分の意志で決めたことなのだろうか。
 その人が言うように。全て、その人にひきずられていたのだとしたら、それは自分の意志なのだろうか。
「…私は、壬生屋未央ではないのですか…?」
 それなら、それは誰なのだろう。
 ここにいる自分は、本当は誰なのだろう。
 今まで自分が自分であると当たり前のように思ってきた。当たり前のように信じて、当然のように息をしてきた。
「ねぇ…」
 そうしたら、この感情も何もかも自分のものではないのだろうか。
 どうしてまた殺されると思ったりしたのだろう。また私は人に裏切られると、どうして思ったのだろう。
「ねぇ、あなたは、私を斬ることが出来る…?」
 その言葉に、壬生屋は泣きながら笑うしかなかった。
「…あなたを斬ったら、私は誰になるのでしょう…」
 黒い闇の中は、冷えた空間だった。遠くで水の零れる音のする、全てから拒絶された場所だった。
 目の前にいるその人を斬って、そうしたら、自分は壬生屋未央になれるのだろうか。
 ただの壬生屋未央に。
「いいのよ、斬りなさい。…私は、もういいの。やり直しを望んではいないのだから」
 青い光をともなって、刀が壬生屋の手に納まる。
「…嘘」
「嘘ではないわ」
「嘘。ならどうして私の中にいろいろなものを残したのですか。どうして…」
 涙は止めど無く溢れてくる。どうしてこんな風に、対峙する必要があるのか。
 どうして自分が、こうやって刀を握りしめなければいけないのか。

 どうして自分たちには、本当の平穏がないのだろう。

「私たちには、『めでたしめでたし』なんて存在しないの。…私たちは、ずっと、光を見ていないから」
「…そうですね」

 だから、壬生屋は刀を振り下ろした。
 何から逃れるためか、なんて。そんな理由はわからなかった。


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難産でございました…今までこんなに書き直ししたりつっかかったりしたことあったか!?って思ったんですけどどーよもう…。敗因はだいたい予想ついております。ふ。ていうかもう…(泣)。
そして順調に順調に、長引いています。夏コミまでに終わりますかのう。むしろ10で終わりますかのう?もう神のみぞ知るですよふはは(泣)。