居間からはつけっぱなしのテレビの音が垂れ流しになっている。新年が始まったばかりのこの時期、大した番組はやっていなくて、それでもテレビはつけっぱなしになっていた。
いろいろなことがたくさんあって、新年早々大変だったけれど、事は片付いた。
だからもっと―――いや、そもそも自分たちが一番にめでたいと騒いでいいはずだった。
如月は、餅を焼きながら一つため息をついた。
(気配まで消す必要なんてないだろうに)
ぷっくりと膨れ上がる餅の方が、まだ気配があるとはどういうことか。
居間にいるはずの人物は、気配すら消していた。そもそもつけっぱなしのテレビから無意味な笑いがこぼれる中、彼は一度たりとも笑わない。
肩を揺らす気配もない。
こうなってしまったのは、柳生を倒した瞬間からだった。
倒す前はあんなに―――いっそ腹立たしいほど爽やかに、全ての憂さを晴らしたような顔をしていたくせに、今度は何が気に入らないというのか。
(…わからないわけじゃ、ない…けど)
―――なんなんやろう、ワイ
呆然とした口振りだった。今目の前で起こっていることがなんなのか、理解できない、したくない。そういう顔をしていた。だからといって逃避してしまえるほど、現実は遠くにはなくて、むしろ酷く近いところで自分を置いてきぼりにしてでも進んでいくもので。
決着をつけたかったはずだ。彼は。それを望んで単身ここまで乗り込んできたはずだ。
けれど今の彼は。
まるで死人のような目で、遠くばかり眺める彼はまるで、つけたかった決着をなかったことにしたがっているように見えた。
「片づけておけって言っただろう?」
居間を覗けば、相変わらずこたつの上は綺麗ではなかった。こたつの上には年末の頃の、忙しくて読んでいる暇もなかった頃の新聞が広がっている。
如月の言葉に、ようやくのそりと起き上がった劉は、ゆっくりと散らばった新聞を一まとめにした。それは決して如月の思う通りの形ではなかったが、今はそれ以上言うのをやめる。
「もう餅も焼けたよ。雑煮、食べるだろう?」
答えはなかった。相変わらず死んだような目をしている。だからといって躊躇はしていられなかった。いい加減こんな状態の劉には慣れてしまっている。
呆然として動かない劉を、わざわざあの場から引きずるようにして連れ帰ったのだ。
誰に言われるわけでもなく、自主的に。よくもまぁここまでやると、自分で自分を笑いながら、けれど劉を捨ててどこかに行こうとは思わなかった。
引きずるように連れ帰った部屋で、放っておけば膝を抱えてうずくまりそうな劉をほとんど蹴飛ばすように風呂に連れていき、着替えも何も全部用意して、適当に握り飯なども作って。
村雨などがこの場を見たら、甲斐甲斐しいと笑ったかもしれない。
自分でもそう思う。面倒見がよすぎるとも思った。
けれど、放っておくことは出来なかった。放っておけばこの寒い中、シャツ一枚で庭の軒先から外を見てばかりいる。
(…風邪なんかひかれたら、困る)
風邪をひいたりしたら余計に面倒が大変だと、そう考えながら、如月はじっと劉を見つめた。
視線が絡まることは絶対にない。
いっそ、事件の解決していなかった頃の方がよかったかと時々思う。
何も喋らない。何もしない。そんな劉を見ていると、負の感情ばかりが彼を取り巻いていた、その頃の方がまだよかったように思う。
少なくとも、生きる力はあった。
歯を食いしばって一人で育って、一人で故郷を後にして、一人で知らない国の言葉を覚えて、笑うことも覚えて。
それが出来た頃の方が今よりはまだよかったかもしれない。
けれど、柳生を倒したのは事実で、黄龍が暴れるのを鎮めたのも確かな事実だ。
それが変わらない以上、絶対に、どんなことをしても、現実を見据えていかなければならないのだから。
視線を感じて、ふと視線をおろせば、劉がこちらを見ていた。
何か言おうとして、口を開きかけたところで、それよりも早く劉の言葉が耳に届く。
「…ごめんなぁ」
その言葉に、如月は拳を握った。
それから、力一杯その拳を劉の顔面に叩きつける。
鈍い音がした。人を殴るのは好きじゃないなと苦く思ったが、今はそんなことはどうでもよかった。
「……」
「君って奴は、本当に腑抜けだ」
拳は、まだ握ったままだった。じりじりとそこに熱のたまる感覚はあったけれど、それが痛いとは思わなかった。
むしろ、手をあげられてなおその目に力の感じられない劉に、怒りがこみあげてくる。
「同情してここまで優しくしてやってたけどもう我慢できないね。ここで僕を殴り返す力がないって言うならさっさと出てってくれ」
言葉は、いっそ冷ややかだった。
自分でも信じられないほど冷静な声だった。
そもそも気にくわなかった。戦う前に死ぬことを考えているのも、龍麻の倒れた姿に動揺したくせにそれを隠しているのも、人を誤魔化すためだけに向けられる笑顔も、全部。
劉は、ただじっとこちらを見ているだけで、どうして殴られたのかわかっていないような顔をしていた。そんな目を見ていると、もっと苛々してくる。
「君は結局自分の不幸に酔ってるだけだ、世界で一番不幸だと思い込んでるだけだ。…そんな奴は目障りだ」
言葉は、歯止めがきかなくなるほどあっさりと零れ出た。言いすぎかもしれないと心のどこかで思ったが、今はそんなことを気にして口篭もれるほど優しい気分でもなかった。
こたつを強く叩いても、劉は力なく笑うだけだ。
「…ごめん、な。翡翠ちゃんをイライラさせるつもりなんて、なかったんやけど」
伝わっていたのかと、少し息を呑んだ。こんなにも力なく死んだ魚のような目をしているから、こちらの気持ち一つすらつかめないだろうと思っていたが。
「けど…ワイの気持ちなんて、翡翠ちゃんには、わからんよ」
す、と血の気がひいた気がした。劉の言葉一つに、頭から血の気がひいて、息を止めそうになる。
それから、力任せに劉の髪を掴んで引き上げた。それこそ、力一杯。
「…ッ、痛いって、何すんねん!」
「君は何を勘違いしてるんだ。それこそ悲劇気取りか?楽しいだろう、そうやって誰もわかってくれないって言って人を蔑むのは」
そのまま、劉を畳の上に転がした。景気のいい音がして、障子ががたがたと悲鳴を上げる。
血の気がひいたと思ったが、それはすでに勢いよく逆流していた。
はらわたが煮えくり返るとはこのことかもしれない。
「…ッなん…っやねんいきなり…ッ」
起き上がった劉は、いつもつけているバンダナをとって、それを床に叩き付けた。
(あ)
その動作に、胸のうちのどこかが反応した。強く拳を握り直す。
いつもしているバンダナをとったせいで、劉の目は髪に隠れて陰になった。ここからはどんな目をしているかわからない。わからないけれど、その目に、僅かな怒りが含んでいるように見えた。
「聞いてなかったのか?腑抜けを置いておく義理はないと言ってるんだよ。いくら龍麻に頼まれたからって、もう懲り懲りだ」
そうだ。もっと言ってやればいい。
劉が怒るように。プライドをずたずたにするまで叫んでやればいい。
「…君は、柳生を倒す、なんて御大層なことを言ってたけど。実際は違うんだろう?君はそう言って、本当は柳生に縋ってたんだろう?」
如月の言葉に、立ち上がれなかった劉が立ち上がった。いや、立ち上がったと認識するより早く、劉の手が如月の首を掴んだ。咽喉を押しつぶされて脳に酸素が届かなくなるような、閉塞感と同時に、畳に叩き付けられた。
そのまま馬乗りになった劉が、ぎり、と指に力を込める。
「…っざけとるんか、それ。なぁ。ワイ怒らせて、それで!」
低く押し殺した声と、思いつめたような目が如月の顔を覗き込んだ。指に込めた力は時折強くなったり弱くなったりして、劉が何かを迷っていることを知る。
如月は、とっさに劉のシャツを握った。両手で。それこそ、問い詰めるように。
「ふざけてなんかいない。僕は君を、今真剣に、馬鹿だと思ってる」
その言葉に、指の力が緩んだ。その瞬間に体勢を立て直して、劉の身体を壁に押し当てる。
「なぁ、君は本当にどうしたいんだ?柳生を倒したかったんじゃないのか?それとも違うのか」
「ワイ、は…!」
腕を掴まれた。力加減を忘れるほどの強さで、つかまれる。この腕を掴むだけの強さで首を絞めていたら、自分はこんな風にはしていられなかっただろう。
「倒したかった。柳生の奴を、この手で、斬り殺すんや、って。首を斬って、八つ裂きにして、それでもまだ足らん…」
呟きは、少しずつ声のトーンを落としていった。たぶんこの言葉は、誰かに向けられたものではなくて、自分自身に向けられたものだ。
「君の望みは叶った。そうだろう?」
「…叶ったんか?なぁ、ワイは、柳生の首持ってないんや。どこにもない。なぁ、あれがないのに、叶ったってことになるんか?」
まるで迷子の子供かなにかのようだと思った。
たった一人で知らないところに来てしまった子供のようだった。大切なものがどこにもないと泣く。
「ずっと探してたんや。なのにどこにもないなんて酷いやないか。ワイどうしたらいいんや。この先、どうすれば…」
如月は、小さなため息をもらした。
結局この子供は、今までずっと―――柳生の身体がこの世から消えた瞬間から、自分のことばかり考えていたわけだ。
自分のことばかり考えて、自分の行く末を自分では定められなくて、ずっと惚けていたわけだ。
(…僕がいなかったらどうするつもりだったんだ)
ふと、劉とこの一つ屋根の下で暮らし始める原因になった彼を思い出す。
そこまで見抜いていたかどうかは知らないけれど、彼は確実な人選をしたのである。
自分を見失っている人間を、放っておくことの出来ないおせっかいを。
(…最悪だ)
劉も、龍麻も。
そして、龍麻の思惑通りになってしまったことも。
だから、如月は劉の頬を、思い切り殴りつけた。それこそ最初の一撃の比ではないくらいに、強く。
がつ、と嫌な音がした。何度殴っても拳が痛いのは殴り慣れていないだけだろうか。それとも殴り方が下手なのか。とにかく如月は、もう一度。掴まれていない腕で劉の頬を殴った。
無言でもう一発。さすがに痛いのか、ぎら、ときつい眼光をくれた劉が、それを防ごうと如月の腕を解放した。
それからもう一発。防ごうとした劉の顔面に、それでもねじ込むようにお見舞いした。
あとはもう、殴って殴られての応酬だった。痛いとは不思議と思わない。ただ殴られれば悔しくて、いつまでたっても理解しようとしない劉を見ているのが腹立たしくて、
あがった息で、叫んだ。身体のあちこちが殴られたり殴ったせいで火照っている。
「―――こうやって、生きるしかないだろ!?」
その言葉に。
劉は、ぴたりと動きを止めた。勢いを失った拳はそのまま畳の上に落ちていく。
「君は生きて、柳生は死んだ。君の家族は生き返らないし君はたった一人だ。だったら、君はどうやってでも生きなきゃならない。柳生に、地獄で、地団太踏ませるくらいに」
覚悟を決めたようなふりをして、本当は殺されたかったのかもしれない。
ずっと、たった一人で生きてきて、そのたびに思い出す凄惨な血の記憶に悩みながら、どうして一人だけ生きているんだと呟きながら、そのたびに。
殺してくれるかもしれないと、望んでいたのかもしれない。
そういう奴だ、と思う。劉は。どこまでいってもネガティブなものの考え方しか出来ない。
「…泣いたって、いいんだと思う。…生きるために」
「……ひ…どいなぁ翡翠ちゃん」
その言葉が聞き取れた、と思った瞬間。
劉の表情が崩れた。壊れた蛇口のように、涙が溢れ出してきた。流れる涙を両の拳で、小さな子供のように拭う。
拭っても拭っても、涙は後から後から溢れてくる。
今まで無理に笑ってきた分だけ泣けばいいと思った。たった一人で知らない土地を踏む心細さすら、唇を噛みながら、そして次の瞬間には笑ってきたのだ。きっと彼は。
すっかり冷えてしまった餅は、固くなっていたがそれでも汁の中にいれてしまえば食べられないわけではなかった。顔がじりじりと痛いのは、殴り合いをしたせいだろう。そこらへんの痛みは、店においてある怪しげな薬でどうにかなるだろう。
こんな時、こんな店をやっててよかったと思う。
如月は、ふと居間の方の気配に集中した。さきほどまでは肩を震わせているのが伝わってきたから、まだ頃合いではないだろうと思って遠慮していたのだが、どうやらようやく落ち着いてきたらしい。
だから如月は、多少荒々しく障子を開けた。
泣きはらした目の劉が、驚いたようにこちらを見ている。
「食べるだろう?」
お盆の上に載せた椀からは、いい匂いがしている。あれだけ殴ったし殴られた。それに目が赤くなるほど泣いたのだから当然腹は減っているはずである。
答えをきかずに如月は、こたつに陣取るとさっさと食べ始めた。そもそも本当ならばもっと餅は柔らかくて美味しかったのだ。それを思うと多少腹は立ったがまぁそれはよしとした。
劉は、そんな如月を見てバツが悪そうに小さな声でいただきます、と呟いた。
ほとんど口中で呟くだけのものである。それから、汁を少し口に含むと、嬉しそうに笑った。
「…うまいなぁ」
「本当はもっとうまかったんだけどね」
間髪いれない一言に、劉は一瞬押し黙ったが、それから肩を揺らしながら笑い始めた。
「翡翠ちゃんが殴らんかったら食べれたんやろ?」
「…もう一回殴ろうか?」
それから二人で、ひとしきりつまらないテレビを見たり、みかんを食べたりして過ごした。
劉はよく笑った。引きつったような、そんな笑い方ではないと思った。
「あのなぁ、翡翠ちゃん」
「なんだ?」
そろそろ寝ようかという時間になった頃だった。立ち上がりかけた如月を制するように、劉が呼び止める。
「…ワイ、故郷に、挨拶に戻ろうかと思うんや」
「……」
特に何も言葉が出てこなかった。それが劉にとって必要なことだとわかっているから、ただ先を促すようにじっと劉を見つめる。
「このままここにいたら、ワイ腑抜けのまんまやし」
龍麻の言葉に、ほとんど済し崩しで劉とこの家に住むことになった。戸惑ったり無駄に気を張ったり。慣れてきた頃には劉の笑顔が偽物だと知ったり。
「……そうだね」
だから、如月は笑って頷いた。
劉の出ていく日は、晴れればいい。そう思いながら。
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