KIMELLA

 無、という言葉が好きだと聞いた時、それはないだろうと思った。
 何もないのがいいというのだろうか。それとも、もっと別の意味だろうか。
 劉はそこまで考えるとため息を一つ残して立ち上がった。
 如月は店先で他愛もない話に花を咲かせている。
 今日は客も多い。自分一人がいなくなったところで気にするほどのことでもないはずだ。
 とにかく、少し頭を冷やそうと思った。いっそ本当に水をかぶるのもいいかもしれないとおもったが、 そんなことをしたら自分の様子がおかしいのがすぐばれてしまう。
 だから、店の声が届かない蔵の方へ向かった。
 もちろん蔵には入れない。ここに入るには如月のもっている鍵がなければいけない。
(ここでええか)
 蔵の周りはなぜだかいつも薄暗い。位置の関係かもしれないが、それ以外の理由もあるのかもしれない。
 そう思いながら、劉は扉の前に座り込んだ。
(…意味がわかっとらんのや)
 いざ座り込んで心を落ち着かせようと深呼吸をした途端、さきほどの言葉が脳裏によみがえった。
―――好きな言葉…?『無』かな
 周りで龍麻たちが思い思いのことを言っていた。如月らしいとかつまらないとか。
 でも、自分はそうは感じなかった。
(馬鹿にしとる)
 無、というのは何もないということだ。どういう意味でそれがいいと言ったのかは知らない。 
 深い意味があるのかもしれない。けれど。
(何もないのがいいわけないやないか)
 如月は、全てを失ったことがないからそんなことが言えるのだ。一族全てが殺されたりしたことがないからわからないのだ。目の前で両親が殺されたり、村を焼かれたりしたことがないから。
 忘れがたいあの感覚。全てを失った瞬間のどうしようもないあの感情。
 あれ以上に心が騒いだことは一度もない。たぶんもう二度とない。
(…わかっとらん…)
 知らず握り締めた掌から血の気が失せていた。
 できれば、言ってほしくなかった。
(………わかっとらん)
 あんな言葉。如月の口から出てきてほしくなかった。
 こういう時の自分はいつも余裕がない。きっと恐ろしい顔をしているのだろう。
 笑うことを知らないような顔をしているはずだ。

(…駄目や)
 こんなことではいけない。劉は一度頭を振った。
 周りに染み込ませた印象を、むざむざ変えるわけにはいかない。人当たりのいい調子のいい人間を、演じきってしまわなければ。

「何やってるんだ」

 声が聞こえた。振り返れば如月が呆れたような顔をして立っている。
「…なんで」
「龍麻たちならもう帰ったよ。今日は美里さんの指輪を新しくしただけだし」
「…あー、そう…」
 呆けている自分に気がついて、勢いよく立ちあがる。
 すると同じような高さで如月の目があった。正面に。
「様子がおかしいな」
 顔色で気がついたのか言葉数で気がついたのか。たぶん両方だろう。
 如月の視線が痛い。
「そうでもないで?」
「普段嘘をつく時の君はもっと笑ってるよ」
 ああ。
 そうだった、と改めて痛感する。
 如月にはばれているのだ。嘘をついていることも、そのために笑うことも。
「…翡翠ちゃんには関係あらへんよ」
「―――…じゃあ、夕食までにいつもの劉に戻っておいてくれ」
「あと一時間もないやん」
 如月が夕食を作り終わる時間はいつも正確だ。そうやって文句を言うと、如月は苦笑した。
「夕食を食べ終わったら、元に戻ってもいいよ」
「…自分勝手やなぁ」
 こちらの呟きなど聞こえていないかのように、如月は踵を返して部屋に入ってしまった。
 顔を突き合わせている時だけ普通にしてろという言葉が、耳に焼き付いたようだった。
 夕食の時間が終われば。劉のためにあてがわれた部屋に閉じこもってしまえば、もしくは如月が自分の部屋に入ってしまえば相手がどうであろうと気にならないから。
(……まだ嫌われとるなぁ)
 時々。こうやって如月は突き放すような言葉を使う。
 そのたびに嫌われていることが実感できる。苛立ってしまう。
(なんも言えへんようにしたろうか)
 無という言葉が好きだとか、突き放すような台詞を言わせないように、その口を封じてしまおうか。
(そうしたら楽や)
 刺すように、如月が消えた部屋の方を睨む。
 無性に心がささくれ立っている。いつもならなんとか抑え込むのに、今はそれができない。
 まるでねじでも外れたように、感情が―――。
(……なんでや)
 如月が言った言葉のせいなのか。他人がそう言っただけでどうして受け流せないのか。
 いつもならもっと冷静に判断できる。笑いながらできる。
 胸の内で素早く計算して、自分にうまく動くように対処できる。
 なのに。

 この感情はなんだろう。
 正体がわからない。恐ろしいもののように思えた。
 自分がどう思っているのか、わからない。
 こんなに大きな感情が動いたのは。
(あの日以来、か?)
 あれ以上ではなくても。こんなに心が騒いだのは、もう何年ぶりだろう。

 わからない、と思った。

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劉の気持ちの動きというか、変動というか、そういうもの。正体がつかめないものだから、あのタイトル。むしろALL or NOTHINGはこっちでもいいかなと思った(笑)
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