あの日以来、悪夢以外の夢は見たことがない。
龍麻が柳生に斬られて病院へ運ばれた。
(なんやそれ…)
仲間たちは、それぞれ憔悴した顔で手術室の扉が開くのをただ黙って待っている。
時折聞こえるため息や泣く声は、劉にとっては妙な白々しさをもって映った。
笑い出したい、と思った。
もうずっとそう思っている。龍麻の倒れる姿よりも、探し続けていた敵の存在を思うよりも、まず笑いたかった。
柳生は、こちらのことなど見もしなかった。
村を潰した男は、すでにそんなことなどどうでもよかったのかもしれない。
もしかしたら、客家だけでなく他の村もそうして潰したのかもしれない。
星の数ほどいる人間の一部を、軽い手慣らしとでも言わんばかりに殺したのかもしれない。
だから、もう覚えていないのかもしれない。
(空回りしとったんか。ワイが女々しかっただけなんか。ワイは馬鹿なんか…!?)
必ず敵を討つと、そう決意して見も知らない土地に来て、言葉を覚えて、人とうまくやるだけのコツを覚えて、それでこうして近づいてみれば―――。
握り締めた拳は白くなっていた。感情が暴れ出さないように。そうしなければ、耐え切れずに笑い出してしまう。
目眩がした。馬鹿馬鹿しくて泣けてきた。
暗い感情が膨れあがった。逆恨みもいいところだと思いながら、緋勇龍麻の存在が憎くなった。
(……今更や)
被害者と加害者の意識の差をはっきりと感じて、―――でもどうすればいいというのだろう。
結局のところ柳生を倒すことにかわりはない。
たとえ向こうが覚えていなくても、自分ははっきりと覚えているのだ。あの男の目を。
八つ裂きにしてやろうと思っていた。
(そんなんじゃ足らん)
我ながら、最悪だった。一歩間違えば自分はこちら側にはいなかったはずだ。こんなに、暗い感情を持て余している仲間は他にいない。
大義名分があったり、自ら望んで龍麻の周りに集まった者たちは、皆一様に眩しい。
(何が光や。何が陰陽や)
それ以上その場にいるのが辛くなって、劉はゆっくりと立ちあがった。
声もなく、ゆっくりと歩いていく。
それを止める者は誰一人としていなかった。
視線を感じはしたが、それでも劉は振り返ることはしなかった。
―――そんな余裕はどこにもなかった。
屋上に出れば、まるで普段と変わらない空気を感じて、劉は小さくその冷えた空気を吸い込んだ。
そこでようやく、あの場の空気の重さに気づく。人が一人、倒れただけでなんという重さなのだろう。
息をするのも精一杯なあの重さに、龍麻がどれだけ仲間たちに頼りにされていたのかがわかる。
誰もが強いと思っていた彼が、柳生にあっさりと斬られたことが皆信じられないようだった。
(だからなんなんや)
人が一人。たかが一人だ。自分はもっとたくさんの人間の死を見ている。その身に纏わりつくような血のにおいを知っている。どれだけ揺さぶっても返事のない身体。揺さぶれば揺さぶるだけ抵抗もなく揺れる首や、見開かれた、けれども酷く濁った目や、斬られた人間の肉を。
(アニキが死んだらどうなるんやろうな)
ぼんやりと、なんの感慨もなくそう思った。
皆、復讐を誓うのだろうか。同じになるのだろうか。
(…でも)
もしそれを果たしたら、彼らはきっと忘れてしまうのだろう。
時間が経って、ゆっくりとゆっくりと緋勇龍麻の存在を忘れ、柳生の名を忘れ、そして顔すら思い出せなくなるのだろう。
見上げた空は明るい。だというのに、やけに重かった。
やっとあの場を離れたのだから笑えばいいのに、どうしても笑うことが出来ずにいた。
「今にも死にそうだな」
突然聞こえたその声に、劉は弾かれたように振り返った。
扉のそばに彼がいた。
「…なんや、翡翠ちゃんか。ええんか?抜け出して」
「それは君こそだろう?…いいのかい?」
声こそ普段と変わらないが、如月の目はやけに思いつめているように見えた。
考えてみれば彼は、龍麻にはだいぶ心を許していたようだったから当然かもしれない。
そしてそんなことよりも、自分がすらすらと喋れることに驚いた。
「ワイは別にええんや。…どうせ人の死に顔はぎょうさん見とるしな」
「―――死ぬかどうかはわからないよ」
「…まぁ、どっちでもええわ」
しばしの沈黙の後、如月がぽつりと呟いた。
「君はさっきから様子が変だ」
心臓が高鳴った。
「…なんや突然」
勘付かれたのだろうか。疑うような視線を向ければ、如月は強い目でこちらを見た。
「何を考えてる?」
「…さぁなぁ」
視線が痛いと思った。勘付かれているならそれもいいとも思った。
どうせ如月の家には居候しているのだから、いつかばれるかもしれないことだ。
それがたまたま今日だっただけで、だからなんだというのだろう。
「別にって顔じゃないよ…その目は」
「あんさんには関係ないことや。気にせんといて」
そう言って、劉は如月に背を向けた。これ以上の会話を拒絶する構えである。
手すりに体重を預けて、やはり空を見た。
昔から何かあると空を見てぼんやりとしていた。
たとえばあの時の夢を見た日とか。血のにおいすらよみがえるようなあの夢を見た後は、広がる青空をぼんやりと眺めたものだった。
「…たしかに関係ないな」
背後の声は、劉には通りぬけるようにしか聞こえなかった。
別に聞く必要もないと思った。
「でもこれだけは言いたいんだ」
こちらの反応がまるでないことに、如月は躊躇したようにいくらか押し黙った。
拒絶して、声も遠くに聞こえていても。彼がひとつ深呼吸をするのが気配でわかった。
「…僕は龍麻が死ぬのも嫌だけど、君が死ぬのだって嫌だよ」
(―――…)
何を言うかと思えば。
弾けたように白くなった頭で、劉は堪えきれずに笑った。
はじめは押し殺しながら、だが次第にそんな自分すら耐え難いほど滑稽に見えて大声で笑った。
「なんやそれ!?なんでワイが死ぬんや。いきなり変なこと言わんといてやー」
「…たしかに変なことだと思うよ。でも今の僕の気持ちだ」
「みんなで生きて東京を護りましょうーって言いたいんか?」
「……」
「戦いでみんなが生きてればええなんて生ぬるいこと言わんといてや。あんさん少し温室育ちすぎやで?」
―――たまらない。
堰を切ったように、言葉が溢れた。
「そういうもんやない。そういうもんやない…。あんさんらがどうだかワイには興味ないけどな、ワイは柳生を殺すんや。人を殺すんやから生きて終わろうなんて思っとらんのや。自分だけ生きようとは思わんのや!」
「じゃあ君も相討ちで死ぬか?死ぬことばかり考えている人間が、人を殺しきれるのか!?」
時間が。
止まったように感じた。
「…克つんだろう?殺した奴が悔やむくらいに生きてやらなくてどうするんだ!?」
目眩がした。
咽喉が渇いた。
「……ほっといてくれんか」
苛々した。
如月の言うことは正論だ。誰が考えてもそれがいいと思うはずだ。
冷静でいられれば、自分だってそう思うはずなのだ。
「あんさんにはわからん」
だからってどうすればいいのだろう。
こんな感情の暴走を、止める術を知らない。ここで暴れ出さないようにするので精一杯だ。
物心つくかつかないかの頃に、目の前で起こったあの惨劇は確実に心の中に巣食っている。
あれからどうやって逃げればいいのだ。
人生の半分以上、彼を殺すことだけ考えて生きてきた自分に、正論など通用しない。
残るのは後味の悪さばかりで、そんなものに足をひきずられている場合ではないのだ。
「簡単に言わんでくれんか…!!」
冷えた空気は決して重くない。清々しさすら感じられるのに、今はそれすらも重く感じた。
だから、如月の目を見ることは出来なかった。
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